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辞書の銀河系

第1回 後編

――雨に濡れたケヤキや銀杏の木の葉が、ときおり吹く風にざわざわと音を立てている。

 飯田さんが引き連れてきた4人の編集者が一人ひとり、墓石の前で手を合わせていく。辞書編集部で『日国』の編集長を務める大野美和さん、KADOKAWAで『新字源』の編集を担当し、一年前に小学館に転職した坂倉基さん、同じく三省堂の辞書編集部の主力編集者だった荻野真友子さん、そして、「kotoba」に新卒で入社する乙部桃子さん――。

 これから8年間という歳月をかけて「第三版」の編集を担う彼らは、松井栄一の辞書作りの精神を、「いま」の時代へと受け継ごうとしている人々だった。

「日本国語大辞典 第一版」が小学館から刊行されたのは1972年。その編集作業は1961年から始まり、全20巻の刊行までに15年間もの歳月を要した。国語、国文学、政治経済や社会、科学など、協力した識者の数は2000名以上に及んだという。

 そして、この松井家と辞書、小学館との関わりを知ろうとするとき、欠かせないのが松井栄一の祖父・簡治が私費を投じて編纂した『大日本国語辞典』の存在だ。そこで、まずは日本国語大辞典の成立の経緯をざっと書いておきたい。

 明治から昭和初期にかけて活躍した国語学者である松井簡治は、大正4年から8年をかけて約20万語を収録した『大日本国語辞典』を作った。準備段階から数えると約30年という歳月を、独力での辞書作りに費やしたというのだから驚く。

 その意志を後に継ぐことになる孫の松井栄一は、自著『50万語を編む』の中で次のような自身の原風景を語っている。

〈書物、書物、書物――そこは書物の山でした。思い出されるのは、南向き八畳の座敷を書斎とし、大きな和机に座り、静かに和書を繰っていた祖父・松井簡治の姿です。書物の山――書棚には近代の本もありましたが、私の印象に残っているのは和綴じの書物を静かに繰っている祖父の姿なのです。私が小さい子どもだったころも、成長してからも、彼はずっとそこにいました。起きている間はほとんど机に向かっていたのではないでしょうか〉

 明治期に大辞書の編纂を志した簡治は、「浅倉屋」という東京大学に本を収めている書店に行き、大八車いっぱいの本を数度に渡って買い求め、その後、書店の信頼を得た後に資料を厳選して買い集め続けたという。

 また、彼は『大日本国語辞典』の編纂に当たって、「一日33語」を執筆するというノルマを自身に課した。これは「20万語」を目標とした時、一年に300日を辞書編纂に費やせば20年でそれを達成できる、という計算によってはじき出された数字で、「日国」の源流となる松井簡治について語られる際の著名な「伝説」でもある。

 松井家には母屋の他、裏山の崖の下に「新書斎」と「編集」と名付けられていた二つの建屋があった。〈ここから、多くの辞書が生み出されていったのです〉と語る松井栄一は、書物に溢れたそんな自身の家を「辞書の家」と呼んだ。

 簡治の死後にその仕事を受け継ぎ、中辞典や『大日本国語辞典』の改訂版を編纂しようとした息子の驥は59歳の若さで早世した。そんななか、三代目となる孫の栄一のもとに残されていた8万枚の「増補カード」に目を付けたのが小学館だった。

 それは『大日本国語辞典』の刊行から半世紀近くが経った1960年の夏、当時、高校の国語の教員をしていた松井栄一が33歳のときだった。小学館から「増補カードをもとに辞書を作らないか」という申し出があり、彼はその仕事を受けた。このとき彼の胸にあったのは「辞書の家」で書物に囲まれていた祖父の姿であり、その意志を継いで出版の当てのない増補改訂の作業を続けた父の姿でもあった。

 以後、松井栄一は小学館とともに辞書編纂の部会を立ち上げ、『大日本辞典』や既存の中小辞典を参照しながら、膨大な用例カードを一枚ずつ紙に切り貼りして項目ごとの対照表作りを開始する。そして、最初は60万語に及んだ見出し語の候補を40万語に絞るため、高々と積まれた資料の山の選別を一日に1000項目のペースで続けた。

 そうして決められた項目の資料が約200名の執筆者に渡され、原稿の作成が行われていくことになった。小学館でも「日本大辞典刊行会」という会社が新たに設立され、一時期は100名近い社員が在籍した。完結までに費やされた15年という歳月の中で、この辞書にかかわった識者の数は2000人を超えたともいう。

 全20巻となる『日本国語大辞典』の第一巻が完成したのは1972年の暮れ。松井栄一は「日国」の第一巻を手にした日、それを祖父と父の仏壇に「できたよ」と言って供えた、と自著の中で回想している。

 そのとき、栄一はいつも祖父の仕事を陰で助け、祖父の死後も辞書の増補改訂の仕事を続けていた父が、この「日国」について何と言ってくれるだろうかと考えた。栄一の辞書作りに対する姿勢を想像する上で興味深いのは、そのなかで彼が次のようなエピソードを続けて語っていることだ。

〈その晩のことです。ふと気づくと、私のそばには父がいたんですね。私は完成した辞書を開いて、父の言葉を待つのですが、いっこうに口を開く気配がありません。どこか褒めてもらえそうな箇所はないか、必死に探す私は驚きの声をあげました。詳しい説明を入れ、充実させたはずの用例が、みんな一、二行で終わっているではないですか。焦ってページを繰る私ですが、どこも空きばかりが目立ちます。駄目だ……これでは、父が何も言ってくれないのも当然かもしれない〉

 この夢から覚めたとき、栄一は〈『日国』の刊行こそ始まったものの、まだまだ納得がいくものではない。そんな私の思いが、このような夢を見させた〉のだろうかと思ったという。

 実際、すでにこのときの彼の書斎には、何万という増補カードが出番を待ち受けるように残されていた。完成と同時に改訂の準備が始まる――生きた「言葉」を歴史に記す辞書作りの営みとは、そのような「終わりなきもの」だと彼は言いたかったに違いない。

「第一版」の出版以後、小学館では「時間ばかりかかって金のかかる事業」という声も多かったが、この一大事業を重要な文化事業として位置づけた経営陣の意志によって、「日国」の「第二版」への改訂は続けられた。

 第一版では収録されなかった語義や現代語、「語誌欄」や「同訓異字欄」「表記欄」を新たに付け加え、最終的に50万項目・100万用例となったその「第二版」の刊行が開始されたのは、前述のように2000年の12月のことであった。

 自著の中でさらなる「次の改訂」についての思いも語っていた松井栄一は、第二版の刊行開始から18年後の2018年に亡くなった。文字通り松井家三代の仕事を「日本国語大辞典」として結実させ、辞書を育て続けた人生だった。

 その墓前で飯田さんが言った。

「要するに、松井家にとって辞書作りというのは『家業』だったんですね」

 これから始まる「第三版」の編集は、『日本国語大辞典』の精神的な支柱だった松井栄一亡き後、初めての改訂となる。この30年で辞書を取り巻く環境は大きく変わり、出版不況の中で利益を生まないこうした事業は逆風の中にある。それでも「第三版」の制作を決定した小学館にとって、「これは会社のブランドを守る『式年遷宮』のような仕事になると考えている」と飯田さんは言うのだった。

 第三版では新たに研究の進んだ言語資料を反映し、3万~5万語の項目を付け加える。また編集作業のデジタル化を進め、全く新しい作り方を模索していくともいう。

 そこで、この連載では『日本国語大辞典』を中心に、辞書をめぐる彼らのような編集者、編集作業を率いていく学識者など、様々な人々の辞書との関わりやその思いを紹介していきたい。

 『日国』の原点である松井家にその「はじまり」を報告した「第三版」の物語は、これから私たちにどのような世界を見せてくれるだろうか。

(第1回おわり)

概要

「これは戦後の日本文化を代表する偉業の一つ」…丸谷才一が、そう激賞した日本最大の国語辞典がある。収録語数約50万を誇る日本語の基本台帳であり、「古事記」「万葉集」以来あらゆる文献を渉猟して集めた言葉の実例(用例)約100万とも号する『日本国語大辞典』は、初版刊行後約半世紀を経て、いま新しい姿に生まれ変わろうとしている。“日国”を生んだ辞書編纂者一族の松井家の物語、そして新版改訂に関わる編集委員、編集者の証言を集めた大宅賞受賞作家・稲泉連によるルポルタージュ、連載開始。

プロフィール

稲泉連

いないずみ・れん/1979年、東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。2005年に『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』で第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。主な著書に『復興の書店』『「本をつくる」という仕事』『サーカスの子』など。最新作『パラリンピックと日本人』が2024年度ミズノスポーツライター賞 最優秀賞を受賞。

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