
日国雑報
2025.3.21 日国春の辞典シンポジウム(イベントレポート)
取材・文:松井美緒
写真:『日国』編集部
小学館110周年にあたる2032年に向け、改訂スタートを発表した『日本国語大辞典 第三版』。このたび、2025年3月21日に日本出版クラブビル(東京・神保町)にて、「2025 日国 春の辞典シンポジウム 辞書の未来 ~AI と DX と国語辞典~」を開催しました。
登壇者は、柏野和佳子さん(『岩波国語辞典 第八版』編者)、川添愛さん(作家・言語学者)、金水敏さん(『日本国語大辞典 第三版』編集委員)、小林龍生さん(文字情報技術促進協議会会長)、近藤泰弘さん(『日本国語大辞典 第三版』編集委員)、司会は見坊行徳さん(『三省堂国語辞典から消えたことば辞典』編著者)。
言語と辞書の領域のトップを走る6名の皆さんに、「小型辞典と大型辞典」と「デジタル変革と国語辞典」をテーマにお話しいただきました。ここでは、約2時間にわたったイベントの模様を抜粋してご紹介します。
〈第1部〉「小型辞典と大型辞典」
語誌から見える日本語の自分と他人の不思議
『日本国語大辞典』(以下、『日国』)は、日本唯一の大型国語辞典であり、用例主義を最大の特色としています。基礎となる文献・資料のデジタル化、編集作業のデジタル化、ユーザープラットフォームのデジタル化、その三つのDX(デジタルトランスフォーメーション)が可能となった今、第三版の改訂という大事業に乗り出しました。シンポジウム第1部「小型辞典と大型辞典」では、言葉の由来、語形の変化、語義・用法の変遷などがわかる『日国』の「語誌」欄について盛り上がりました。
見坊さん 『日国』は一般ユーザーに加えて、辞書編者・編集者が使う辞書という側面もありますね?

見坊行徳さん
柏野さん 「語誌」欄の充実が、辞書編者が『日国』を参照するポイントだと思います。私は大学の非常勤講師も務めていまして、学生との議論で「かわいそう」が話題になりました。「かわいらしい・愛らしい感じ」という意味で使いたいんだけれども、「かわいそう」と言ってしまうと、それはもう「不憫な」を指してしまう。そういう時に『日国』の「かわいそう」の語誌を引きますと、こうあります。「中世末から近世初頭に成立した言葉。『かわいい』の成立当時の意味からすると、不憫なさまと愛らしいさまの両方の意の『かわいそう』があるが、後者は『かわゆそう』という古い語形と方言に残るだけ(後略)」。学生と、愛らしいという意味の「かわゆそう」を復活させましょう!と盛り上がりました。このように語誌は、辞書研究者にもこれから専門家を目指す新しい世代にも大変参考になります。第三版の語誌にも、大いに期待しています。

柏野和佳子さん
金水さん 「かわいそう」は、今は他人についてだけ使いますね。「気の毒」も同様です。「気の毒」は江戸時代初期あたりまでは、自分についてだったんです。「気の毒なことでござる」は、「自分が辛い」という意味。『日国』の語誌によると、江戸時代後期から他人のことについて言う用例が勢力を増す。ただ、ここにある意味『日国』の限界があります。「気の毒」を自分について使わなくなったのは、一体いつなのか。今の『日国』からは、それはわからない。わかる時代が来るのか、難しいですね。それと、「かわいそう」「気の毒」「不憫」……現代の感情を表す語彙は、他人のことを言うものが非常に多いですね。それも私は気になっています。
小林さん 自分と他人に関連して、グルメサイトなどを見ると、よく「○月○日来店」とレビューにありますよね。これ、本来は「訪問」ですよね。自分のことなのか、人のことなのか、その使われ方が最近変わってきているのかもしれないと感じます。

小林龍生さん
近藤さん 自分と他人、そこに謎があるんですね。国語学者の渡辺実先生は、「「わがこと・ひとごと」の観点と文法論」という論文の中で、日本語は話者自身のこと(わがこと)と話者に関わりなく成立すること(ひとごと)に分かれる、と述べておられます。つまり、自動・他動といった区別ではなく、この「わがこと・ひとごと」が日本語の大きな枠組みになっている。これ、私はすごい説だと思っています。こういった言葉の原理みたいなものも、辞書から読み取れるといいですね。第三版の改訂では、語誌や語釈に何らかの形で取り入れられたらと考えています。
〈第2部〉「デジタル変革と国語辞典」
AI時代の“正しい日本語”とは?
『日本国語大辞典 第三版』は、デジタル版を「ジャパンナレッジ」上で順次公開、その後書籍の出版を検討というロードマップが発表されています。第2部「デジタル変革と国語辞典」では、デジタルが普及した時代における『日国』の存在意義や、AIの活用について掘り下げました。
見坊さん AIを通じた辞書の活用、AIの辞書への応用についてどう思われますか?
川添さん 今後、人によって編集された『日国』のような大型辞書とAIが、きちんと連携することは、とても大切になってくると思います。今のAIって、検索のたびに答えが違ったりしますよね。それが、人が責任を持って編集した辞書とつながって、正確なリファレンスのあるものとして使えるようになるのであれば、この上なく便利ですよね。

川添愛さん
小林さん 『日国』に載っている言葉はある種の“ステータス”を持つ。それが、『日国』の目指す方向の一つじゃないでしょうか。『日国』にとっての正しい日本語とは何か、というしっかりした理念がある。『日国』とその背後にある資料の全体によって、日本語とはこういうものですよ、というのが見えてくる。第三版はそんな辞書になるといいなあと思います。
近藤さん そのためには、用例採取の方針が非常に重要になりますね。『日国』が基づく材料、その範囲を決めていく作業が極めて難しい。例えば方言はどこまで含めるのか。電子資料も膨大に増えています。用例の問題は、第二版から第三版への大きなステップアップとなるべき点だと思います。

近藤泰弘さん
見坊さん X(ツイッター)のタイムラインを丸ごと用例採取に使って、より鮮度の高い言葉の変遷をつかまえる。そういったことなどにも『日国』にはチャレンジしていただきたいな、と私のような一般ユーザーは期待してしまいます。
近藤さん それはすでに、研究レベルでは多く行われています。でも『日国』に反映されるのは、第四版以降をお待ちください(笑)。
見坊さん 事前に会場からいただいたご質問にもお答えいただければと思います。
「昨今、辞書や辞書の利用自体を楽しもうとするコンテンツや入試問題も増えていますが、そういった文化の醸成をどのように捉えておられますか?」
金水さん 日本人は元々、言葉へのエンターテインメント的アプローチは好きですよね。同じ言葉を、平仮名・カタカナ・漢字・ローマ字で表記できるから、そこに様々なニュアンスを含められる。言葉の多様性を日本人は楽しんできた。だから、辞書のエンタメ的活用、辞書に基づくクイズやゲームも、今後どんどん広がっていくと思います。

金水敏さん
*
多岐にわたる興味深いディスカッションに続いて、会場では、『日本国語大辞典 第三版』新編集委員となられた4名、田中牧郎さん(明治大学教授)、日高水穂さん(関西大学教授)、前田直子さん(学習院大学教授)、山本真吾さん(東京女子大学教授)にご挨拶があり、シンポジウムは大盛況のうちに締めくくられました。

2025年3月21日「日国春の辞典シンポジウム」会場の様子
プロフィール
松井美緒
まつい・みお/編集者、ライター。講談社で漫画編集として勤務。担当作『きみはペット』が第27回講談社漫画賞受賞。フリーとなり、「東京人」「ダ・ヴィンチ」「with class」などで執筆。編集した書籍に、開成ぎん太の『おうち遊び勉強法』など。Goldsmiths, University of LondonにてMSc in Digital Journalism取得。
概要
2024年7月25日、『日本国語大辞典』の改訂に着手すると発表しました。
改訂作業のまっただなかにある編集部から、『日本国語大辞典』に関するお知らせやイベントレポートを不定期で発信します。
プロフィール

『日国』編集部
小学館辞書編集室『日本国語大辞典』担当と株式会社kotobaからなる。 ※寄稿の場合は、各記事にプロフィールを添えています。