第12回 発掘!「福井恐竜学」の現場

2015年9月24日 山根一眞

日本で出た恐竜化石の8割が福井県産

 日本では長いこと「恐竜の化石はない」と言われてきた。
 私にとっての恐竜は、子供時代に繰り返し眺めていた図鑑の中か、幼稚園時代から(父に連れられて)何度も訪ねた東京・上野の国立科学博物館の正門外に展示してあった(野ざらしの)首も尾も長い巨大恐竜、ブロントサウルスの像のイメージしかなかった(国立科学博物館からそれが撤去されたのは、後年、ブロントサウルスは独立種ではないと断定され幻の恐竜となったたからか?)。
 明治学院中学校に入学後、地質調査や化石採集に没頭するようになってからも、地学指導の高橋登先生からは、「日本に恐竜の化石は出ない」と聞かされていた。
 当時、ゴビ砂漠での恐竜化石発掘のわくわく物語を読み、日本もユーラシア大陸の一部なら恐竜がざくざく出るだろうになぁと、一度はゴビ砂漠に行きたいと思い続けていた。
 ちなみに、そのゴビ砂漠での恐竜発掘のわくわくストーリーを描いた名著『恐竜探険記』(R・C・アンドリュース著、小畠郁夫・訳と解説、1994年刊)は、小学館発行の「地球人ライブラリー」の一冊に入っています<編注:現在、品切れ重版未定。電子書籍版も未発売です>
 「日本では出ない」はずの恐竜化石が続々と発見されるようになる時代は、思いがけない幕開けで始まった。
 1980年代に入り福井県で中生代の動物化石(ワニ類)が発見されたことから恐竜の化石も出るのではないかと考えていたのが、当時、福井県立博物館の学芸員だった東洋一(あずまよういち)さんだ。県立博物館で地質・古生物を専門とする学芸員は東さん一人だけだったという。
 そして1982年、福井県鯖江市の中学生の少女が中生代白亜紀の「手取層群」の岩石のかけらの中に見つけた小さな化石が、恐竜の一部と判明する。その鑑定に貢献したのが東さんだった。
 東さんはこの発見によって「手取層群」(中生代のジュラ紀半ば~白亜紀半ば、約1億5000万~1億2000万年前)には恐竜化石が大量に眠っているはずと確信。県を説得し1989年から大規模発掘調査を開始、今日まで「掘れば恐竜が出る」状態が続き、福井は「恐竜王国」と呼ばれるようになる。これまで日本で産出した恐竜化石の8割が福井県産なのだから。
 恐竜博物館が開館する前、福井県立博物館は福井市内にあったが、博物館内の恐竜に関する展示は隅の方にごくわずかのみの淋しさだったことが忘れられない。
 あれから20年、膨大な標本展示と大学の研究所を上回ると思わせる学術水準体制を持つ現在の福井県立恐竜博物館への発展は、東さんの信じがたいほどの努力が大きい(4種の新種の恐竜の学名にはいずれも東さんの名が入っている)。先回とりあげた長崎県でのティラノサウルス科の恐竜の歯の化石の発見も、福井県立恐竜博物館の研究者によるもので「福井恐竜学」の水準の高さを物語る。
2014年8月、福井県立恐竜博物館に東特別館長を訪ねた時の様子。(写真・山根事務所)
 もっとも「手取層群」は、岐阜県、石川県、そして富山県にも続いているので、各県でも大量の恐竜化石が出るはずだ。しかし福井県のみが「恐竜王国」と呼ばれているのは、恐竜発掘や研究が熱心に進められてきたからだ。それは、恐竜博物館を新設するなど恐竜研究に大きな予算を投じてきた「県」の英断ゆえでもある。
 福井駅前でいささかこけおどし風に恐竜が来県者を出迎えるのは、理由あってのことなのだ。
 恐竜化石は福井県以外でも続々と発見される時代が到来、今や日本は世界有数の恐竜化石の産地になりつつある。それは、なぜなのか?
 初代の福井県立恐竜博物館館長で地質・古生物学者の濱田隆士さん(2011年没)はこう語っていた。
 「山根さん。地質学者、古生物学者であっても、恐竜はいないという思い込みがあったので、たとえ恐竜の化石を目にしても、それが恐竜には見えなかったんです。しかし、あるとわかってからは、次々と目に止まるようになったんですよね」
 これは大事な教訓だなあぁと思う。
 あるこり固まった先入観があると、目の前にしていながら「そこにあるもの」が認識できず、理解ができないのだ、と。
 徹底した「調べもの」の意味もそこにある。
 先入観を捨て、既存の情報に惑わされず、調べたいことを自分の眼で、自分の手で探し続ける、それが思いもかけない発見をもたらすのだから。
 ということを知ると、恐竜化石の発掘現場に立ち合いたいという思いにかられるだろう。だいじょうぶ、それも可能なのだから(いくら時間があっても足りません!)。
 恐竜博物館から近い勝山市北谷という山間部で続けてきた大規模発掘現場はかつて立入禁止だったが、2014年、その発掘現場がある谷の対岸の斜面に「野外恐竜博物館」がオープンしたからだ。
 ここからは大規模発掘調査中であれば、重機を使って谷の向かい側で山の斜面を大きく削っている発掘現場が望めるだけでなく、発掘恐竜化石が展示されたミニ恐竜博物館もある。
 さらに、その崩した岩石の一部を大きな砂場風に広げ並べた「化石発掘体験広場」も設けられている。親子でハンマーを振り下ろして岩石を割り、化石を探すことができるのだ。小さな貝や植物化石は比較的簡単に見つかるが、恐竜の一部が見つかる可能性もある(恐竜博物館の敷地内にも恐竜化石の発掘体験広場があるが、ここで子供が恐竜化石を発見、恐竜の皮膚化石を見つけた女性もいたのだから)。
野外恐竜博物館と内部展示。(写真・山根一眞)
野外恐竜博物館から見ることができる発掘現場「北谷」。重機を使った大規模発掘の時期は年度によって異なるが、発掘を担う全国の若い大学研究者たちの夏休み中に実施される。今年の発掘は終了した。(写真・山根一眞)
化石発掘の体験をする子供たち。(写真・山根一眞)
 もっともここへ行くには、恐竜博物館発の専用バスによるツアーを申し込まねばならない。
 恐竜博物館の本体自体、夏休み中は入場チケット売り場でさえ30分待ちという行列ができるほどで、この「野外恐竜博物館」ツアーも厳しい競争率。それだけに、福井の恐竜を訪ねる旅はむしろこれからのシーズンが好機です。

5㎜四方の卵の殻で恐竜と特定

ここに至って、再びもやもやとしていた疑問がわきあがる。
かつて、恐竜化石はゴビ砂漠などユーラシア大陸での発掘が広く知られていたが、周囲を海に囲まれている日本列島という小さなエリアに、なぜ、多くの恐竜が棲息できたのか?
「福井県で恐竜化石が出た」と聞くと、「そうか、かつてここは恐竜の繁殖エリアだったのか」と思ってしまうのだが、ちょっと違う。地球史という時間スケールでみると、福井県は今の場所にあったのではない。それどころか、現在の日本列島の位置は海だったのだ。では、恐竜化石が出る手取層群はどこから来たのか? それは、ユーラシア大陸の東縁、今の中国の沿海部から「移動」して来たのである。
地球はいくつかの巨大な岩盤(プレート)で覆われていて、そのプレートはいずれも静かに移動している。その移動による歪みが一気に解消されると巨大地震が発生する。
このプレート理論は東日本大震災でかなり知られるようになったが、およそ2000万年前に手取層群を含む後の「日本列島」もそのプレートの動きによってメリメリと大陸から切り離されて静かに長い時間をかけて移動を続け、さらにちょっと回転して約100万年前にほぼ現在と同じ日本列島が作られたことがわかっている。
つまり、福井などで産出する恐竜化石は、日本列島がまだ大陸の一部だった時代に地層に閉じ込められた後に、2000万年近い年月をかけてプレートという乗物によって現在の日本の位置にまで移動してきたのである。

プレートの移動で日本列島が形成された。(出典:勝山ジオパークの資料をもとに構成)

中国は恐竜研究が盛んで福井県立恐竜博物館との密な共同研究が続いてきたが、それは当然。1億数千年前には、中国も日本もなく、いずれも同じ大陸の一部だったからだ。プレートの移動で地層や岩石はかなりの熱や圧縮による変形を受け、当然それに含まれる恐竜化石も保存状態がよくないケースが多い。それでも「中国」で出た恐竜化石と同じものが「日本」でも出る可能性は大きい。
福井県立恐竜博物館が中国の恐竜展を開催、また、現在、開館15周年特別展として「南アジアの恐竜時代」を開催しているのも、地質時代のユーラシア大陸の生物世界は、日本だの中国だのという国境とは無関係だったからなのだ。
一方、その割に、福井県から続々と「新種」の恐竜が発見されるのはなぜなのか?
非常にラッキーだったということもできるが、じつは恐竜の種類はきわめて多く「1万種はいたのではないか」と言われることが理由かもしれない。では、どうしてそんなに数多い恐竜がいたと考えられるのだろう?
それは、恐竜が生きていた時代がとてつもなく長かったためなのです。恐竜が誕生したのはおよそ2億5000万年前だが、その生息は6500万年前に絶滅するまで、じつに1億8500万年におよんだ。
人類の誕生には諸説があるが、猿人=アウストラロピテクスを原点とすれば、現生人類までは約500万年だ。この人類史と比べると、恐竜はじつにその37倍もの長い年月にわたって誕生、進化を繰り返してきた計算になる。
当然、ある種は途中で絶滅、新たな恐竜へと進化を続けてきた。いくつもの「恐竜進化図」を眺めると、そのさまがよくわかる。1億8500万年の間にじつに多種多様の恐竜が生まれては消えているのだ。
現在、世界に棲息している鳥類の数はおよそ1万種にのぼる。「今」という瞬間だけでも1万種の鳥類が棲息していることを思えば、「恐竜が1万種はいた」という話は説得力がある。
それだけの種がいたのであれば、「手取層群」で発見・発掘した恐竜が「新種」であることは不思議ではない。それはまた、今後も続々と福井県から新種の恐竜が発見されることを期待させるのだ。
100年後のJR福井駅前広場では100頭もの「福井産の新種の恐竜」が「ガオーッ」とお客様をお迎えしているかもしれないです。
さて、かつてのユーラシア大陸の一部だった恐竜化石産地、「北谷」を見たからといって、それですべてではない。
研究者たちの恐竜化石探しは、さらに広い範囲で続いているからだ。
昨年(2014年)の夏、恐竜博物館に特別館長の東さんを訪ねた時、若い研究者によるある研究を紹介された。それは、この地で発見された「恐竜の卵」の研究成果だった。そして見せられたその卵の「殻」にはたまげましたね。わずか5㎜四方という小さなものだったからだ。それを電子顕微鏡で解析するなどして論文にまとめたというのだ。

福井県立恐竜博物館の研究者はこんな小さな恐竜の卵の殻を調べ論文にまとめている。(写真・山根一眞)

「いったいどうやってこんな小さなモノが『恐竜の卵の殻だ!』だとわかったんですか?」
東さんは、こともなげにこう言うのだった。
「研究者ならわかりますよ」
そして、
「明日、恐竜の卵の殻を探しに行くんです。クルマで少し走り、クルマを下りて15分くらいの場所です」
そんなに近い場所ならぜひ見たいとお願いし、同行させてもらうことにした。
そこは、大規模発掘現場の北谷からさらに奥へと、四輪駆動車で林道を進んだ場所だった。
クルマから降りた東さんが、「この先です」と向かったのは林道からずり落ちそうになるほど険しい谷の底だった。
下る道はない。藪をかきわけながら急斜面を下っていくのだが、イノシシの巨大な巣穴らしきものがあるなどとんでもないルートだった。同行の若い研究者がハチに襲われるパニックもものとせず、確かに15分で谷底の渓流に着いたのだが、「あ、ここじゃなかったな」と、東さんは渓流沿いにさらに上流へと谷底を流れる渓流に足を入れ、サブザブと浸かりながら進むのでありました。

福井県勝山市、杉山川上流での「恐竜の卵」を探すフィールドワーク。(写真・山根一眞)

「よく、こんな場所がわかりますね?」
「このあたりはずいぶんと調査で歩いていますから。でも、ここは久しぶりだったのでちょっと間違えました」
残念ながらこの日は時間切れで恐竜の卵の殻の破片は発見できなかったが、それにしてもこういうとんでもない場所を歩きながら、あのわずか5mmという恐竜の卵の殻を見つけてきたのが、恐竜研究者たちなのだ。そして、こういう地道なフィールド調査を何十年と続けてきたことが、今日の「福井県=恐竜王国」の礎となったんだなぁと実感しましたです。
今年の6月に恐竜博物館を訪ねた際には、恐竜の脳の構造解析・研究によって大成果が得られたという話を聞いたが、これは学術論文の発表がまだ先なので記せないが、あらためてご紹介したいと思う。
「調べもの」とは、未知の疑問や謎に対して揺るぎない事実を探し出し、解明し理解することだが、恐竜研究者たちの「調べもの」の真摯さは、人間ならではの創造的行為だなぁと、しみじみと思った次第です。
<第12回了/恐竜シリーズはさらに続きます>

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