第2回 日比谷公園の「謎」
2015年3月16日(月)山根一眞
フィリピンの英雄の像がなぜここに?
ネット情報の「荒海」に乗り出す前に
では、「ホセ・リサール博士」とは誰なのか?
フィリピンの歴史は学んだことがなかったので、調べてみることにした。
また、「1888年、この地、東京ホテルに滞在す」とあるが、「この地」に今は「東京ホテル」など見当たらない。日比谷通りのはす向かいに帝国ホテルがあるので、その旧名称が「東京ホテル」だったのかもしれない。
それにしても、フィリピンの国民的英雄が、1888年(明治21年)にここにあったホテルに滞在しただけでブロンズ像が建てられたというのは、なんとも不思議な話だ。どういうことなのか?
こういう人物情報や歴史の基礎知識を得るために、多くの人はネット上の百科事典「Wikipedia」で調べると思うが、まずは知識の身元が確かな辞書や百科事典で調べるのが基本だ。
そこで役立つのが、私が愛用してきた日本最大のインターネット辞書事典サイト「ジャパンナレッジ=JapanKnowledge」だ(株式会社ネットアドバンスが運営)。ここでは約50種類の百科事典や各種辞典のほか、歴史の基本資料である『東洋文庫』(平凡社)なども閲覧可能で、かつ、あらゆる項目の一括検索が可能という驚異的な知の集積庫なのだ。
有料サイトだが、個人会員の場合、月会費は1620円(年間契約の一括払いは1万6200円、さらに多くの貴重事典類も検索できる「JKパーソナル+R」は同2160円と2万1600円)。毎月、単行本1冊分の投資で知識ギュウギュウの自分専用の書庫を持てるようなことなのだから、じつにありがたい。
http://japanknowledge.com
この「ジャパンナレッジ」で「ホセ・リサール」「リサール」を検索したところ、『日本国語大辞典』(小学館)や『デジタル版集英社世界文学大事典』など7種の事典・辞書でヒットした。
『日本国語大辞典』によれば、リサールはフィリピンの急進的思想家であり、ヨーロッパに留学もした当時の優れた知識人。社会小説『我に触れるなかれ』、『反逆』などの文学作品を通じて祖国の独立運動を牽引、1892年(明治25年)にフィリピン民族同盟を結成、1896年(明治29年)に銃殺刑に処されている。
『デジタル版集英社世界文学大事典』では1700字分の詳細解説が綴られており、35歳で銃殺されて以降、彼はフィリピンの英雄となり、文学作品は国民的な文化遺産となっていることがわかった。
『デジタル大辞泉』(小学館)、『日本人名大辞典』(講談社)、『国史大辞典』『誰でも読める 日本史年表』(いずれも吉川弘文館)、『ランダムハウス英和大辞典』(小学館)にも記述があった。
「1896年のフィリピン革命」とは、1896年(明治29年)から1902年(明治35年)に展開された「スペインの植民地支配を打倒しアメリカの再植民地化を阻止する独立闘争」(『日本大百科全書・ニッポニカ』)だが、日本との関係、日比谷の「東京ホテル」についての記述は見つからなかった。
辞書・事典で調べる際には、このように一つの記述内のキーワードを次々と玉突き式に探り広げていくことが大事なのである。こういう「身元」がハッキリしている「基礎知識」をまずは頭に入れたあとで、膨大な情報があふれる(不正確情報も混じっているかもしれない)インターネットの荒海に乗り出すことが大事なのだ。
「Wikipedia」にも「ホセ・リサール」の項目があったが、「この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。」という注釈があった。
未完の内容なのだ。
記述の出典として41の文献が記載してあるが、そのうちじつに36の文献が、たった1冊の本、安井祐一著『フィリピンの近代と文学の先覚者――ホセ・リサールの生涯』(芸林書房[1994年3月20日刊])なのには驚いた。つまり、ホセ・リサールの研究者ではなく、リサールに関心を持ちこの本を読んだ熱心な人が、その本の引用のみで綴った解説のようだ(まいります)。
となれば、その本を買って読むのが一番だが、芸林書房は2005年に倒産していた(あれま)。
もっとも、ネット上ではすぐに古本が見つかり購入できるのがありがたい。なお、『見果てぬ祖国』(ホセ・リサール原作、村上政彦翻案・潮出版社、2003年刊)も必読書のようだ。
ネット上では、「ホセ・リサール」の記述は多くあり、彼が日本のスペイン公使邸に滞在中、その近くに住む臼井勢以子(おせいさん)と知り合い恋人同士となり、かつ、彼女が通訳をつとめるなどリサールの日本での支えだったことがわかった。
マニラにはリサール記念館があり、フィリピンでは「おせいさん」という名を知る人も少なくないというもの新発見だった(今度、マニラ訪問の際には訪ねてみよう)。
私が、フィリピンの歴史やリサールのことを知らなかったからでもあるが、もし私が映画監督であれば、この歴史ラブストーリーはぜひ「おせいさん」を主人公にした大型テレビドラマ、はたまた映画にしたいと思っただろう。ほとんど誰も気にかけぬ路傍のブロンズ像ひとつを「調べる」ことによって、そんな展開が生まれることもある(かもしれない)。
このブロンズ像は、「1961年に建立した石碑の場所に、37年後の1998年に追加した」と、当時のフィリピン大使名で記してあった。そこで、それについて調べたところ、日比友好支援会という名のウェブに、「フィリピン独立100周年」を記念し「ユーチェンコ駐日大使(当時)が建立した」とあり、その「記念碑設計図」と、以下の設計者のメッセージも見つかった。
≪ホセ・リサールのブロンズ像作成にあたりホセ・リサールの実際の顔の特定をするためマニラ、フォート・サンチャゴのリサール博物館や文献資料を探した結果、フィリピン大使館南平台(当時)で所有するホセ・リサール像が本人のイメージに近いと思い、それを原型師熊谷友次氏(富山県)に粘土造形を依頼し、やはり富山県のブロンズ鋳造会社(高岡銅器)で作ることになりました。≫
このブロンズ像の企画、実現を担ったという日比友好支援会のメッセージには、臼井勢以子について、「気品と教養を備えたこの女性によって日本がリサールにとって特別な存在となったのでした」とあり、マニラのリサール博物館にある「おせいさん」の肖像画もアップされていた。
http://jpcfg.getja-san.htmpan.net/oseil
こんな女性だったのだ・・・・・・。
ますます、大河ドラマか、はたまた歴史ラブロマンス映画か、という思いがつのりましたね。
ところで1961年の最初の石碑は社団法人日本リサール協会が建立したが、もともとは日比谷通り方向を向いていたが、ブロンズ像の追加建立にあたって日比谷公園内を向くように変えたのだという。
日本リサール協会についても調べたが、ちょっとそれは、またの機会に。
ネット上では、このリサールとおせいさんのラブロマンスを記したものも多々あり、また、日比谷公園のリサールのブロンズ像について書いているウェブもいくつか見つかった。それらはいずれも、2人が過ごした場所が「東京ホテル」であるとしているのだが、どうもそれは単にブロンズ像の碑文の引用にすぎないようなのだ。
私の「謎」への関心は「東京ホテル」に向いていった。