第2回 日比谷公園の「謎」

2015年3月16日(月)山根一眞

フィリピンの英雄の像がなぜここに?

 毎日のように見ている町の光景の中には、わかっているつもりだがじつは「謎」に満ちた世界が多々あるものだ。足をとめてそれを調べることで、思いがけない知識が得られる。こういう「調べてみる習慣」を持つことは、「調べる能力」の向上にもつながり、知的な発見を味わう至福感も味わえます。
 では、その一例から。
 2014年春、私は、東京都千代田区立日比谷図書文化館が開催する「日比谷カレッジ」で講演を行うため、日比谷の交差点から日比谷公園をぬけて図書文化館に向かった。
 だが、公園南端にある図書文化館までの500mを進むのに40分もかかってしまった。途中で「?」と、興味をひかれるものが多々あったからだ。
東京都立日比谷公園。日本初の洋風近代式公園で広さは約16万平方メートル(約4万8000坪)。写真・山根一眞
 そのひとつは、日比谷の交差点にある公園入り口から日比谷通り沿いに約700m歩いた通路際に、日比谷通りを背にして建立されているブロンズ像だった。しかもそのブロンズ像は、古びた石碑の上にL字型で覆い被さるような形をした比較的新しいものだった。
日比谷通りを背にしたブロンズ像。古い石碑を覆うように逆L字型の石の造形の上に人物像。写真・山根一眞
 なぜ、こんなところに、こんな形のブロンズ像があるのか?
 これは誰の像か?
 誰が何を目的に建てたのか?
 時間がなかったのでとりあえず小さなデジカメで数枚の写真を撮り、帰宅後、その写真をチェックした。その写真は背景も入れ雰囲気を取り込むために「斜め撮り」をしていたため、碑文などの文字が斜めでかなり読みにくかった。
 そこで、画像処理ソフト「Adobe Photoshop Element 9」(古いソフトだが、これで十分!)で「斜め」の写真を「長方形」に変形させ碑文の文字を読みやすくした。
 最近のデジカメはきわめて高画質であるため、こういう変形処理をしても画像が破綻せず、見えなかった思いがけないものが浮き上がってくるのだ。これは、私がいつもやっている簡単な画像処理の技なのだが、この「デジカメ写真変形法」はあらためて書きます。
写真は、いずれも小さなデジカメで撮ったスナップ写真をもとに、文字部分のみを切り出し読みやすいよう長方形にしたもの。上から3点は写真・山根一眞。最下段の写真は石碑の裏側。建立当時の東京都知事の名がある。写真・小学館国語辞典編集部
 こうして得た「変形補正デジカメ写真」から読むことができた碑文は、こうだ。
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 Dr. Jose Rizal
 1861-1896
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 DR. JOSE RIZAL
 NATIONAL HERO OF TH PHILIPPINES
 STAYED IN 1888
 AT TOKYO HOTEL
 LOCATED AT THIS SITE
 UNVEILED JUNE 19, 1961
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 フィリピンの国民的英雄
 ホセ・リサール博士
 1888年この地東京ホテルに
 滞在す
 1961年6月19日 建之
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 その石碑の前には、いささか新しい金属の銘板があり、こちらにはこう記してあった。
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 The bust of Dr. Jose P. Rizal has been added to
 this historical marker on the occasion of the
 CENTENNIAL ANNIVERSARY OF PHILIPPINE INDEPENDENCE
 1898-1998
 ALFONSO T. YUCHENGCO
 AMBASSADOR
 May 8, 1998
 Tokyo
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 このブロンズ像の人物は、フィリピンの国民的英雄「ホセ・リサール博士」で、石碑は50年前の1961年に建立、除幕。
 ところがブロンズ像はその37年後の1998年に加えたものという。

ネット情報の「荒海」に乗り出す前に

では、「ホセ・リサール博士」とは誰なのか?

ブロンズ像のリセ・ホサール博士。端正な顔立ちの若い人物像だ。写真・山根一眞

フィリピンの歴史は学んだことがなかったので、調べてみることにした。
また、「1888年、この地、東京ホテルに滞在す」とあるが、「この地」に今は「東京ホテル」など見当たらない。日比谷通りのはす向かいに帝国ホテルがあるので、その旧名称が「東京ホテル」だったのかもしれない。
それにしても、フィリピンの国民的英雄が、1888年(明治21年)にここにあったホテルに滞在しただけでブロンズ像が建てられたというのは、なんとも不思議な話だ。どういうことなのか?
こういう人物情報や歴史の基礎知識を得るために、多くの人はネット上の百科事典「Wikipedia」で調べると思うが、まずは知識の身元が確かな辞書や百科事典で調べるのが基本だ。
そこで役立つのが、私が愛用してきた日本最大のインターネット辞書事典サイト「ジャパンナレッジ=JapanKnowledge」だ(株式会社ネットアドバンスが運営)。ここでは約50種類の百科事典や各種辞典のほか、歴史の基本資料である『東洋文庫』(平凡社)なども閲覧可能で、かつ、あらゆる項目の一括検索が可能という驚異的な知の集積庫なのだ。

日本最大の辞書事典サイト「ジャパンナレッジ」。

有料サイトだが、個人会員の場合、月会費は1620円(年間契約の一括払いは1万6200円、さらに多くの貴重事典類も検索できる「JKパーソナル+R」は同2160円と2万1600円)。毎月、単行本1冊分の投資で知識ギュウギュウの自分専用の書庫を持てるようなことなのだから、じつにありがたい。
http://japanknowledge.com
この「ジャパンナレッジ」で「ホセ・リサール」「リサール」を検索したところ、『日本国語大辞典』(小学館)や『デジタル版集英社世界文学大事典』など7種の事典・辞書でヒットした。

『日本国語大辞典』によれば、リサールはフィリピンの急進的思想家であり、ヨーロッパに留学もした当時の優れた知識人。社会小説『我に触れるなかれ』、『反逆』などの文学作品を通じて祖国の独立運動を牽引、1892年(明治25年)にフィリピン民族同盟を結成、1896年(明治29年)に銃殺刑に処されている。
『デジタル版集英社世界文学大事典』では1700字分の詳細解説が綴られており、35歳で銃殺されて以降、彼はフィリピンの英雄となり、文学作品は国民的な文化遺産となっていることがわかった。
『デジタル大辞泉』(小学館)、『日本人名大辞典』(講談社)、『国史大辞典』『誰でも読める 日本史年表』(いずれも吉川弘文館)、『ランダムハウス英和大辞典』(小学館)にも記述があった。
「1896年のフィリピン革命」とは、1896年(明治29年)から1902年(明治35年)に展開された「スペインの植民地支配を打倒しアメリカの再植民地化を阻止する独立闘争」(『日本大百科全書・ニッポニカ』)だが、日本との関係、日比谷の「東京ホテル」についての記述は見つからなかった。
辞書・事典で調べる際には、このように一つの記述内のキーワードを次々と玉突き式に探り広げていくことが大事なのである。こういう「身元」がハッキリしている「基礎知識」をまずは頭に入れたあとで、膨大な情報があふれる(不正確情報も混じっているかもしれない)インターネットの荒海に乗り出すことが大事なのだ。
「Wikipedia」にも「ホセ・リサール」の項目があったが、「この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。」という注釈があった。
未完の内容なのだ。
記述の出典として41の文献が記載してあるが、そのうちじつに36の文献が、たった1冊の本、安井祐一著『フィリピンの近代と文学の先覚者――ホセ・リサールの生涯』(芸林書房[1994年3月20日刊])なのには驚いた。つまり、ホセ・リサールの研究者ではなく、リサールに関心を持ちこの本を読んだ熱心な人が、その本の引用のみで綴った解説のようだ(まいります)。

Wikipediaの「ホセ・リサール」の項目の出典。41件中じつに36件が1冊の本からだった。

となれば、その本を買って読むのが一番だが、芸林書房は2005年に倒産していた(あれま)。
もっとも、ネット上ではすぐに古本が見つかり購入できるのがありがたい。なお、『見果てぬ祖国』(ホセ・リサール原作、村上政彦翻案・潮出版社、2003年刊)も必読書のようだ。
ネット上では、「ホセ・リサール」の記述は多くあり、彼が日本のスペイン公使邸に滞在中、その近くに住む臼井勢以子(おせいさん)と知り合い恋人同士となり、かつ、彼女が通訳をつとめるなどリサールの日本での支えだったことがわかった。
マニラにはリサール記念館があり、フィリピンでは「おせいさん」という名を知る人も少なくないというもの新発見だった(今度、マニラ訪問の際には訪ねてみよう)。
私が、フィリピンの歴史やリサールのことを知らなかったからでもあるが、もし私が映画監督であれば、この歴史ラブストーリーはぜひ「おせいさん」を主人公にした大型テレビドラマ、はたまた映画にしたいと思っただろう。ほとんど誰も気にかけぬ路傍のブロンズ像ひとつを「調べる」ことによって、そんな展開が生まれることもある(かもしれない)。
このブロンズ像は、「1961年に建立した石碑の場所に、37年後の1998年に追加した」と、当時のフィリピン大使名で記してあった。そこで、それについて調べたところ、日比友好支援会という名のウェブに、「フィリピン独立100周年」を記念し「ユーチェンコ駐日大使(当時)が建立した」とあり、その「記念碑設計図」と、以下の設計者のメッセージも見つかった。
≪ホセ・リサールのブロンズ像作成にあたりホセ・リサールの実際の顔の特定をするためマニラ、フォート・サンチャゴのリサール博物館や文献資料を探した結果、フィリピン大使館南平台(当時)で所有するホセ・リサール像が本人のイメージに近いと思い、それを原型師熊谷友次氏(富山県)に粘土造形を依頼し、やはり富山県のブロンズ鋳造会社(高岡銅器)で作ることになりました。≫

このブロンズ像の企画、実現を担ったという日比友好支援会のメッセージには、臼井勢以子について、「気品と教養を備えたこの女性によって日本がリサールにとって特別な存在となったのでした」とあり、マニラのリサール博物館にある「おせいさん」の肖像画もアップされていた。
http://jpcfg.getja-san.htmpan.net/oseil
こんな女性だったのだ・・・・・・。
ますます、大河ドラマか、はたまた歴史ラブロマンス映画か、という思いがつのりましたね。
ところで1961年の最初の石碑は社団法人日本リサール協会が建立したが、もともとは日比谷通り方向を向いていたが、ブロンズ像の追加建立にあたって日比谷公園内を向くように変えたのだという。
日本リサール協会についても調べたが、ちょっとそれは、またの機会に。
ネット上では、このリサールとおせいさんのラブロマンスを記したものも多々あり、また、日比谷公園のリサールのブロンズ像について書いているウェブもいくつか見つかった。それらはいずれも、2人が過ごした場所が「東京ホテル」であるとしているのだが、どうもそれは単にブロンズ像の碑文の引用にすぎないようなのだ。
私の「謎」への関心は「東京ホテル」に向いていった。

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