第124回 遊女のアリンス言葉「ざんす」「チャキチャキ」

 チョビ髭に黒縁メガネでソロバン片手にトニー谷が「サイザンス」のギャグを飛ばしたのも、今では年配の人しか知らなくなった。
 この「サイザンス」のギャグを戴いたのが、マンガ「おそ松くん」(小学館『少年サンデー』連載)のイヤミ氏である。おフランス帰りと自称し「~ざんす」と上品ぶり、「シェー」と奇声を発し、これが流行語となった。その「おそ松くん」は「おそ松さん」に成長してリバイバルブームとなっている。
 ところで、「ざんす」というのは、「である」の丁寧語である。ひと昔前は、東京の山の手の奥様族の使う言葉の代表格だったが、現代でも上品ぶった会話などで時折見かける。でも、もともとは遊女が使った吉原の遊里言葉だった。
 吉原の遊女といえば「~でアリンス」と言っていたように落語などでは演じられ紹介されているから、遊女といえば「アリンス」言葉ということになっている。『安林主(ありんす)物語』(安永5年〈1776〉刊)という遊女が主人公の黄表紙もあったりするが、案外、遊女たちは「アリンス」言葉を使うことはなかった。
 江戸の戯作者山東京伝の洒落本(しゃれぼん)『繁千話(しげしげちわ)』(寛政2年〈1790〉刊)の会話から吉原の遊女の言葉を拾うと、
  (客)「ふだん付き合いやす」(遊女)「ヲヤほんに

  (本当に)かえ。ほんざんすかえ」
と、丁寧語の「ざんす」を使い、これは遊女屋・丁子屋で使われ出した言葉だった。
 吉原で丁子屋と並ぶ大見世(おおみせ)の遊女屋・松葉屋では「~でおす」というのが常套語だったと、京伝は洒落本『傾城觿(けいせいけい)』(天明8年〈1788〉刊)で解説し、洒落本『総籬(そうまがき)』(天明7年刊)では遊女たちが「じれっとうおす」「坊主でおす」「おっせんかえ」「嬉しいおす」と言って座をにぎわす光景を描いている。
 同じく語尾につけた丁寧語では、遊女屋・扇屋では「~だんす」を使って、「はばかりだんす(遠慮する)」などと言っている。だから江戸時代は、廓言葉(さとことば)を聞けば、どこの遊女屋で勤めていたのか、素性(すじょう)がわかったというわけである。
 同じ吉原の遊女屋・角(かど)の玉屋では「ボチボチ」という言葉が流行(はや)り、これはもてる客が相手の遊女と仲が良くなったという意味で、よく使われたという。現在では、ある行為にゆっくりと、とりかかる様子を「ボチボチ」と言うことが多い。
 「ボチボチ」の反対語で、遊女に振られたことを「チャキチャキ」と言った。
 血統にまじりっけなしの生粋(きっすい)なことを言う「嫡嫡(ちゃくちゃく)」が訛って「チャキチャキ」になったとされ、仲間内で有望株だと注目されることをいう言葉ともされる。しかし、吉原の玉屋ではちがっていた。「チャキチャキ」は客を振ることをいうスラングだった。だから「あの客はチャキチャキの江戸っ子だ」と玉屋の遊女たちが言えば、鼻持ちならない憎らしい嫌な客だと、陰口を叩くことであったのである。

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吉原・丁子屋の遊女たち。右に立っているのが雛鶴(ひなづる)、左で机に手をかけているのが丁山(ちょうざん)。まわりに新造(しんぞう。若い遊女)と禿(かむろ。見習いの少女)たちがいる。大見世だけに豪華な衣裳をまとい、部屋の調度も贅(ぜい)をつくしたものである。彼女らは「ザンス」をよく使った。『新美人自筆合鑑(しんびじんあわせじひつかがみ)』(天明4年〈1784〉刊)より。

黄表紙…安永4年(1775)~文化3年(1806)まで江戸で刊行された絵入り小説群のことをいう。大人のマンガ・コミックといった内容で、江戸土産としても珍重された。
山東京伝…1761~1816。江戸後期の戯作者(げさくしゃ)・浮世絵師。洒落本は、遊里の風俗や男女の遊びを写実的に描いたもの。『傾城觿』は吉原の著名な遊女の家紋や筆跡、その人となりを解説し、『総籬』は吉原松葉屋の瀬川をモデルにした洒落本。

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