第123回 江戸歌舞伎観劇は贅沢だったか

 太平洋戦争に向かう戦前に「贅沢(ぜいたく)は敵だ」という国威発揚の標語があった。

 「贅沢は敵だ」という標語は江戸時代にも唱えられていた。もっとも、言葉としては「贅沢」の法律語でもあった「奢侈(しゃし)」禁止で、とくに天保の改革は厳しかった。

 戯作者(げさくしゃ)の山東京山は、寛政の改革以前の天明年間(1781~88)頃には「ぜいたく」という言葉は使われず、「贅を尽くす」という表現だったが、天保年間(1830~43)頃から江戸で使われだしたと『蜘蛛(くも)の糸巻』に書いている。

 そして、江戸の照降町(てりふりちょう。中央区日本橋小舟町界隈)に絹や木綿の精製した品を並べ、上品な織物として市中の相場の倍額で売っていた店があり、俗称「ぜいたく屋」と呼ばれていた。だが、天保13年(1842)の天保の改革で処罰され、店主は牢獄死したという。

 同じく天保13年3月に5代目市川海老蔵(7代目団十郎)は北町奉行の遠山金四郎景元(遠山の金さん)に呼び出され、妾(めかけ)を3人も持つなど奢侈贅沢の禁止を破ったとして手鎖(てじょう)の刑罰の上、江戸十里四方追放に処されている。

 歌舞伎役者が贅沢できたのは、江戸人の唯一と言ってもよい娯楽であった歌舞伎への出演ギャラが高かったからなのだが、そのギャラになる入場料も高かった。その江戸の歌舞伎にとって11月は顔見世狂言の季節で、役者にとって稼ぎ時でもある。

 芝居小屋や演目で観劇料は違ってくるものの、文化元年(1804)の河原崎座の当たり狂言だった秋芝居の値段を見てみると、桟敷席(二階などの特別席)が銀15匁(もんめ)(小判1両の約4分の1)、土間席(一階の舞台正面席)が銀12匁(小判1両の約5分の1)、土間割合(他の客と相席)が172文(小判1両の約23分の1)、観客を追い込んで詰め込む大衆席の切落しは64文というところであった。

 大名、上級武士や富豪町人と、下級武士と職人などの庶民とでは金銭感覚が違い、いわゆる格差社会でもあったから、歌舞伎の観劇料に対する認識や価値観も違っていた。

 寛政の改革では、大工の職人の日当を3匁前後より高くしてはいけないという町触れが出されて以来、それが守られていたから、一人前(いちにんまい)の大工職人にとって桟敷席は5日分の稼ぎに相当する。職人などの庶民にとって、土間席でも贅沢だった。だから、どうしても桟敷席、土間席をはじめとする高い席は、富豪の商家の娘たちや、大名、上級武士の家族など、そして江戸見物をする金持ちたちで占められることになる。

 歌舞伎の見巧者(みごうしゃ)は安い切落し席と相場が決まっていた。職人の家族5人で土間割合席での歌舞伎観劇でも、銀12匁くらいになる。およそ土間席と同じ料金になろうから、これだったら庶民も楽しめた。贔屓(ひいき)の役者を間近に見たい若い女性たちは、どうしても舞台に近い土間席で見たかったろう。だが、奉公する身分の女性では3月分の給金が消える。歌舞伎はやはり江戸の庶民にとって”高値の花”、贅沢なことだった。

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歌舞伎の桟敷席の様子。茶屋から届いた食べ物が並び、舞台を見ながら盃を手にする客。女芸者や太鼓持ち、陰間(かげま。舞台に出ない男色を売った俳優)たちが相手をしている。『京伝憂世之酔醒(きょうでんうきよのえいざめ)』(寛政2年〈1790〉刊)より。

山東京山…1769~1858。江戸後期の戯作者。山東京伝の弟。篆刻(てんこく)をなりわいにしていた傍ら、合巻(ごうかん)などの戯作活動もしていて、随筆に『蜘蛛の糸巻』(弘化3年〈1846〉編)がある。

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