第109回 足袋(たび)は贅沢品だった
春たけなわである。そろそろ女性の足元も軽やかになる季節であろう。
江戸時代は、靴下ではなく足袋(たび)を履(は)いていたが、それはもっぱら寒さしのぎの場合であって、庶民は病気でないかぎり裸足(はだし)の生活が日常だった。足袋は贅沢(ぜいたく)な履物で、多くの人々は裸足で下駄(げた)や草履(ぞうり)などを履いていたし、裸足で外を歩くことも珍しくなかった。
明治34年(1901)5月29日、警視庁は裸足禁止令を出しているが、ペストの流行を危惧(きぐ)し、衛生を考えた上でのことである。明治時代になっても東京の街中を裸足で歩く者がそれほどいたということがわかる。
江戸時代の絵を見ると、振り売り(行商人)などは裸足で街中を売り歩いている。もっとも、ガラスがなく、金属片もほとんどなかった時代だけにケガをするということもなかったろう。私は、まだグラウンドにガラスの破片などがあまりなかった昭和30年前後の頃、小学生時代に運動会でズックを履かずに運動足袋と称するものを履いて走った記憶があるけれど、今のランニングシューズより軽く便利だった。
井原西鶴(いはらさいかく)の浮世草子(うきよぞうし)を読むと、老婆が革足袋を履いているというのは、ケチで流行遅れのものを大切に使っているということで出てくる。布製でなく革製の足袋は確かに長持ちするだろう。おそらく戦国時代などでは戦陣で戦うのに足元をしっかりさせるために革足袋を履いていて、その遺風が江戸時代にも残っていたということであろう。
年寄りが冬場から春先にかけて寒さしのぎに足袋を履くことは江戸時代もあった。江戸城へ登城する年寄りの幕臣たちは、願い書を出して足袋の着用が許されている。だが、若い幕臣たちは裸足が原則だった。寒い冬の日、廊下を裸足で歩くというのは冷たくて大変だったろうと思うが、いざという時、足袋を履いてるために廊下を滑っていたのでは、武士の本分である剣術を全うできないと考えていたものだろう。
平賀源内(ひらがげんない)の本草学(ほんぞうがく)の師匠でもある本草学者で医師でもあった田村藍水(らんすい)の息子で幕府医官を勤めた田村元長(げんちょう)は、天明4年(1784)3月、足痛のため夏冷えするので、登城の折には足袋の着用を許可していただきたいと願書を幕府に出している。元長が46歳の時のことで、幕府に許され、毎年のように出していたようでもある。
時代劇などでは、江戸城で武士たちは足袋を履いて動き回っているが、正式な儀式で礼服を着用するとき以外は裸足が原則で、江戸城内にあっては足袋は老体になって許可された者だけが履くものであった。
江戸の足袋屋は、寒い季節が商売繁盛で、足袋の形をした看板を掲げていた。分かりやすくて人々の目にとまりやすかったろう。その店先では、それぞれの大きさの足袋を箱の中にまとめて入れてあって客に選ばせた。これは乱暴な売り方のようだけれども、左右の足の大きさが違うことはよくあることで、足にフィットしたものを客に自由に選んで買ってもらうわけなのである。一見してズボラな商売をしているようだが、左右の足の大きさが違う客もいるわけだから、無駄のない実に合理的な販売方法といえた。
大きな足袋の看板を掲げた足袋屋の店先には、木の箱が置かれ、足袋がたくさん入っている。足袋屋の前を通る若い人たちの足元をよく見ると、裸足で草履を履いている。山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)『笑語於臍茶(おかしばなしおへそのちゃ)』(安永9年〈1780〉刊)より。
井原西鶴…1642~93。江戸前期の浮世草子作者・俳人。大坂の人。俳諧では矢数俳諧を得意とした。庶民の生活を写実的に生き生きと描いた浮世草子の名作を多数書き、『好色一代男』『好色五人女』などの好色ものや、経済小説とも言える『日本永代蔵』『世間胸算用(せけんむねさんよう)』などで知られる。
平賀源内…1728~79。江戸中期の本草学者、戯作者(げさくしゃ)、浄瑠璃作者。田村藍水に本草学を学び、自然科学、殖産事業の分野で活躍。また、風刺と諧謔(かいぎゃく)に満ちた戯文も多く発表。浄瑠璃にも手を染めた。著に「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」、浄瑠璃に「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」など。
田村元長…1739~93。江戸中後期の医師。本草学者。田村藍水の長男。名は善之、号は西湖。寛政3年(1791)、伊豆諸島で薬草を採集し、博物誌「豆州諸島物産図説」をあらわした。