第85回 嫁も姑も六阿弥陀詣

 春の陽気に誘われて、人々は旅に出たくなる。
 江戸時代後期になると、春秋の彼岸の頃に江戸の郊外を日帰りで歩く小旅行が流行(はや)った。今でいう「日帰りバスツアー」というところであろうか。そのひとつに「六阿弥陀詣(ろくあみだもうで)」がある。
 嫁や姑、店の手代(てだい)、そして長屋の大家(おおや)までが連れ立って、江戸近郊の六寺の阿弥陀をめぐった。参詣とは名ばかりの行楽の旅である。道々よもやま話をしたり、途中にある「菜めし田楽(でんがく)」の店に立ち寄ったりして、春や秋の一日を楽しんだ。
 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の作品に『六あみだ詣』(初編文化8年〈1811〉刊~三編同10年〈1813〉刊)がある。
 図版はその挿絵から。前を行く大家の一行と出会ったのは、八百屋の婆様。さっそく婆様は大家に、隠居した旦那が釣りにはまって殺生をしてかなわないと愚痴をこぼす。婆様が「大家さん、ちっと意見をしてくださいよ」と言うと、「旦那が釣りに出かけて殺生するより、お前が外へ出かけず家にいて嫁をいじめる殺生のほうが怖い」と大家の説教がはじまる。そしてあれやこれや喋りながら旅は続くのであった。
 この作品の初編では、大家は途中で出会った侍(さむらい)にも説教をしてしまう。町人である大家の爺が侍に説教をするという変わった趣向が、読者に受けた。
 煙草の火を借りに来た27、8歳の侍が、武士の出世も難しいものだと嘆くと、大家は、主君に奉公を尽くして出世しようという欲があるからダメなのだと叱る。主人が死んで形見分けを貰(もら)いたくて空泣きする下女の心持ちと変わらない。屋敷に飼っている馬を見なさい、出世しようなどといった私心なく陰日向(かげひなた)なく奉公しているではないかと言う。
 しかし、家老に出世した馬もいないから、武士というものは器量の優れた者しか出世はできないもの、貰う給金を大切にむだ遣いせずに暮らすのが一番だと大家は説教する。
 文化年間(1804~18)以降になると、武士も庶民も生活に困窮するところがあり、心学(しんがく)の教訓が流行して信仰心に頼る世相ともなっていた。道々、世相を大家が皮肉るのがこの作品の味噌でもある。人心を図星にするものや屁理屈を並べるムダな説教が面白くて、ヒットにつながった。
 一九のベストセラー『東海道中膝栗毛』の弥次さん・北さんの旅も、初めは神仏祈願の「伊勢参り」ということになっていた。それが、初編が大ヒットしたので急遽、東海道五十三次の旅へと変更されたのである。
 江戸時代の旅といえば「お伊勢参り」というほど伊勢参りは盛んだった。江戸幕府が開いて30年後の寛永15年(1638)にブームが起こり、その後、文政13年(1830)までに9回のブームがあった。
 60年ごとに参詣は大ブームになり、「御陰(おかげ)参り」と呼ばれていた。とくに、7回目のブームの享保15年(1730)以降から、そう呼ぶようになったようである。別に「抜け参り」とも呼ばれる伊勢参りもあった。奉公人が雇い主の主人に無断で職場を抜けて伊勢参りすることに由来しているが、抜け参りで無断欠勤して職場放棄した奉公人を主人は黙許していた。
 一九は、明和2年(1765)に東海道筋の駿府(すんぷ。現静岡市)生まれだから、明和8年(1771)の参詣ブームを見ていたはずである。春から夏にかけて200万人を超える参詣人が駿府を通過したことになる。こういった神仏祈願をする人たちが旅する姿を子どもの頃から見ていた一九は、そんな旅人を主人公にした作品を何作も書いている。

『六あみだ詣』続編(文化9年〈1812〉刊)より。

六阿弥陀詣…彼岸に詣でると利益が多いという、江戸近郊6か所の阿弥陀如来の霊場。一九の『六あみだ詣』によれば、一番目が豊嶋村・西福寺、二番目が沼田村・応味寺、三番目が西ヶ原村・無量寺、四番目が田畑村・与楽寺、五番目が下谷・長福寺、六番目が亀井戸・常光寺。『江戸砂子』とは三番目が違い、現代では2寺が違っている。

十返舎一九…1765~1831。江戸後期の戯作者。本名、重田貞一。はじめ大坂で浄瑠璃作家となったが、寛政6年(1794)に江戸に出る。『東海道中膝栗毛』のほか、洒落本(しゃれぼん)、滑稽本(こっけいぼん)、読本(よみほん)、咄本(はなしぼん)など、様々なジャンルでヒット作を多く出した。

心学…江戸時代の石門心学(せきもんしんがく)のこと。中国、明の王陽明の学説に、神道・仏教の趣旨を調和させた実践道徳のための教養。享保(1716~36)の頃に、京都の石田梅岩(いしだばいがん)が唱えはじめた。

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