第71回 二八(にっぱち)と品川遊郭

 時間と季節を問わないコンビニ文化というか、季節感がなくなった現代でも、商売をする人たちは「二八(にっぱち)」と言って、2月と8月は商売にならない月だと嫌うところがある。
 江戸時代は太陰暦(旧暦)だったから、現在の太陽暦でいえばだいたい1か月遅れで、それぞれ3月と9月になる。旧暦2月は、今ではすっかり季節の言葉となった「春一番」に代表されるような春嵐(しゅんらん)による海難事故を恐れて漁民たちは嫌い、現代の商売人たちは正月で支出が多かった翌月ということもあって、商売に不向きな月と嘆くわけだが、しかし、江戸時代の2月については、現代事情と少し様相を違えていた。
 江戸の旗本(はたもと)や御家人(ごけにん)といった武士たちの俸禄(ほうろく)は年に3度に分けられ支給され、一部現金支給もあったけれど、現米(げんまい)と呼ばれる米支給が原則だった。3度とはそれぞれ2月、5月、10月で、2月と5月は借米(かりまい)とも貸米(かしまい)とも呼ばれ総支給の4分の1ずつ、米の収穫期にあたる10月の切米(きりまい)では2分の1が支給された。だから2月は、支給された俸禄(ほうろく)米を現金化する札差(ふださし。蔵宿)は忙しくなった。
 人口の4割前後を占めていた武家関係者の経済活動が活発化し、札差はもとより、その経済効果は庶民まで波及し、江戸の2月は不景気な月とはならなかった。
 これに対し旧暦8月は、今度は秋の台風(野分〈のわき〉)の襲来を、とくに漁民や海運関係の人たちが嫌うばかりか、米の収穫前の農民たちも頭を悩ませた。5月の借米支給から日も経ち、10月の切米までは間があり、お盆で金を使った武士たちの懐(ふところ)具合も季節と裏腹に冷え込む時期となる。そこで金のかかる吉原遊びも敬遠しがちになり、川柳に「品川の客にんべんあるとなし」(品川遊郭の客は侍と寺〈坊主〉)(誹風柳多留7編)とあるように、下級武士たちは手軽な品川遊郭で遊ぼうと品川へと出掛ける。
 そして、「品川はいびつな月も見るところ」(同7編)と、十五夜だけに限らず、江戸湾を渡ってくる涼風を受けて、品川の「三階」の座敷で、ちょっと月見と洒落込むわけである。
 夏の明月を眺めながら、安手の月見酒で楽しんだのは幕府の高級官僚たちというより、むしろ下級武士たちであったろう。高級官僚たちは別なことで不景気風を心配していた。
 自然と共生する時代のこと、8月は旱魃(かんばつ)や冷害、台風の被害などで早々と収穫を諦(あきら)めた離農者が都市へと流入する「古くて新しい問題」が発生する月でもある。
 この離農者の都市流入問題に江戸幕府の為政者たちは頭を悩まし、8月になると幕府の官僚たちは諸国の米の作柄の調査に代官を走らせ報告を待った。米の作柄状況(作況指数)で一喜一憂するのは現代も変わらない。今年ももうすぐ、そんな時節を迎える。

品川遊郭での月待ちの様子。海には舟が浮かび、向こうには月が出ている。月待ちとは、陰暦1月と7月の26日の夜に月の出るのを待って拝むこと。高輪や品川で盛んに行われた。『江戸名所花暦』文政10年(1827)刊より。

品川の「三階」…品川遊郭は浜辺に作られているため、街道に面した階を「二階」、波打ち際に接する下の階を「一階」、街道から見て二階になる階を「三階」と呼んだ。

ほかのコラムも見る