「負けめし、勝ちめし」という言い方が好きだ。
「熟考の末にたのんだメニューが、当たりだったかはずれだったか」
という程度の意味である。
自炊や、家族が作ったものに勝ち負けを感じることはあまりなく(たとえおいしくなかったとしてもだ)どちらかといえば外食にともなう感情なのだろう。
店との勝負。そしてその店で食うことを選択した自分との勝負だ。
ドローか、やや押されぎみ程度の勝負ならよいが、完膚なきまでにたたきのめされることもあり、日々外食者は闘技場にいるわけである。
と、ここまで書いたら、さっそく気になる日本語がありました。
「完膚なきまで」。
完膚ってなんだ?
さっそく辞書をひいてみたら、
「傷のない完全な肌。転じて、痛手を受けていない部分」
とあり、文字どおりの意味だったわけだ。
完膚なきまでにたたきのめす、とは、「無傷の部分がないほど徹底的にやっつける」といった意味であり、なにやら戦国時代を思わせる荒々しさであるが、完勝、圧勝の気配は伝わってくる。
「なきまで」と常にいっしょに使われる完膚だが、もっと明るく、たとえば女湯で「あら完膚」「奥さんこそ完膚」みたいな色っぽい使い方をしてもいいのではないだろうか。
先ほど私は近所の中華料理屋でチャーハンを食べてきたが、勝ちめしだった。
少ない油でぱらりと炒められた、玉子、チャーシュー、ネギのみのシンプルでうまい焼きめし。すっきりしたネギスープと、キュウリと大根のぬか漬けがついて650円。
完全な勝利であり、仕事にも身が入ろうというものである。ちなみにこの店にはかつてラーメンで敗北しており、リターンマッチであった。
少ない油でぱらりと炒められた、玉子、チャーシュー、ネギのみのシンプルでうまい焼きめし。すっきりしたネギスープと、キュウリと大根のぬか漬けがついて650円。
完全な勝利であり、仕事にも身が入ろうというものである。ちなみにこの店にはかつてラーメンで敗北しており、リターンマッチであった。
しかしよく考えてみると、私の勝利=店の敗北ということは、うまいものをつくればつくるほど負けということなのか? という疑問も出てくる。
まずいふざけたものを出す店が勝利者、というのは納得できず、ここで自分が考えちがいをしていたことに気づく。
店は対戦相手ではない。
まずいふざけたものを出す店が勝利者、というのは納得できず、ここで自分が考えちがいをしていたことに気づく。
店は対戦相手ではない。
あくまで自分との戦い。経験と直感と観察力のすべてを総動員して臨む、おのれ自身との立ち合いなのだ。
たとえば、おいしくてとても感じのいい蕎麦屋だって、蕎麦をすすってる鼻先にとなりの席からタバコの煙が流れてきたら、それは負けめしだ。
吸う人を非難する筋合いではなく、残念ながら「時の運」が自分になかったということ。そういう場合もあるということだ。
このように「勝ちめし、負けめし」の概念は非常におもしろく、新たなる戦いを求めれば求めるほど負ける確率も増えてくるが、戦えるうちに戦っておきたいと最近しみじみ思う。敗北のダメージは舌や胃に重いが、まだその痛みは心地よさをともなっている。
たとえば、おいしくてとても感じのいい蕎麦屋だって、蕎麦をすすってる鼻先にとなりの席からタバコの煙が流れてきたら、それは負けめしだ。
吸う人を非難する筋合いではなく、残念ながら「時の運」が自分になかったということ。そういう場合もあるということだ。
このように「勝ちめし、負けめし」の概念は非常におもしろく、新たなる戦いを求めれば求めるほど負ける確率も増えてくるが、戦えるうちに戦っておきたいと最近しみじみ思う。敗北のダメージは舌や胃に重いが、まだその痛みは心地よさをともなっている。