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日国余滴

第2回 「中抜け」の語の謎

近藤 泰弘

 

 「あげつらう」という語がある。「日国」によると「物事の善悪、理非などを議論する。物事の是非をただす。また、ささいな非などをことさらに取り立てて言う」とある。ちょっと文語的な古風な表現ではあるが、特に最後の「ことさらに言う」という意味では現在でも普通に使われる語であると言っていい。試みにX(旧twitter)で検索してみても、「ことさらにあげつらう」「つまらんことをあげつらう」「あげつらう感じが無理」など、同一のニュアンスを持って使われる語である。

 ところで、さらにこの語の用例を「日国」で調べていくと面白いことに気がつく。初出例は『日本書紀』の平安時代の訓点本(漢文訓読の読み方を書き加えた本)や、『大唐西域記』という三蔵法師玄奘の見聞録の訓点本などなのだが、そこでたちまち消えてしまう。次に現れるのは、なんと江戸時代の本居宣長の随筆『玉勝間』まで待たなくてはならない。「日国」の用例だけではわからないとおっしゃる方もあると思うので、念のため、国立国語研究所の「日本語歴史コーパス」という、奈良時代から明治時代までの代表的文学作品に出現する単語を検索できるシステムで調べてみても、『源氏物語』はもちろん『今昔物語集』『平家物語』『徒然草』といった文学作品にもまったく現れない、いわば歴史的「中抜け」の語なのである。

 これについて、実は、「日国」には説明がある。「古く書紀古訓の外には、古辞書や訓点資料に見られるだけであるが、漢文訓読によって後世に伝わった。近世以後文章語として復活した」とあって、その仕組みについて一応の理解はできる。しかし、実は、この説明だけではまだ謎が残るのである。

 「うやまう」という動詞があるが、これも「あげつらう」と同じで古くはお経の訓点本にしか出てこない語で、平安時代の普通の文では、『紫式部日記』に1回だけ「阿闍梨(あざり)も大威徳をうやまひて、腰をかがめたり」と仏教的文脈に出てくる極めて特殊な語である。しかし、この「うやまう」は『今昔物語集』や『平家物語』といった漢文訓読の色合いの濃い作品には頻出する(いわゆる和漢混交文)。その後、江戸時代を経て、現代でもやや文語風だが、使われる語になっているが、これが普通の訓読語っぽい言葉の歴史のあり方なのである。「あげつらう」のように完全に「中抜け」になるのはかなり珍しい。これはいったいどういう仕組みによるのだろうか。

 実は「あげつらう」のような「中抜け」の語の仲間をある方法でコンピュータを用いて探すことができるのだが、その方法で調べた仲間の語を次にいくつかあげてみよう。

 まず「うながす」。これは現代ではごく普通の語だが、「あげつらう」に極めてよく似た歴史的分布を持っている。「日国」と歴史コーパスで調べると、初出が、『日本書紀』や『史記』の訓点本であることも同じで、あとは、『大和物語』『蜻蛉日記』に各1例、『今昔物語集』の2例だけ。突然、江戸時代まで飛んで人情本や洒落本に出現することになる。漢文訓読だけが原因なら、『平家物語』等の軍記に1例も出てこないのは理解できないのである。

 次に「ついばむ」。これも鳥がくちばしで物を食べる意味の現代語であるが、古代では珍しい語で、『白氏文集』の訓点本に現れるのが最初で、それ以後、平安時代の諸文献、『今昔物語集』『平家物語』などにも皆無。室町時代の『日葡辞書』にとられている以外は完全に姿を消しており次は江戸時代の読本の『椿説弓張月』にまで飛んでしまう、文字通り「中抜け」の語である。

 「あやかる」もそうである。「〜にあやかりたい」などと言って現代もよく使うが、これも、古代では『三教指帰注』という弘法大師の著作の解説への訓点にあるだけ。あと『拾遺集』に1例あって、中抜けで、突然に室町・江戸時代の、狂言に現れる。

 これら「中抜け」の語の特殊性がどこにあるのか、今後よく調査しなくてはならないが、コンピュータでこれらを見つけた方法だけを書いておこう。平安時代の代表的な漢和辞典に『観智院本類聚名義抄』というものがある。これは訓点本の訓を集大成したものである。訓点語には和文語と共通するものもあるから、平安時代語の辞書としてはかなり完璧である。ここから、代表的お経の訓点に現れる語のリスト(築島裕氏作)と、和文語彙のリスト(宮島達夫氏の古典対照語彙表)を引き算するのである。

 類聚名義抄語彙 - お経の訓点語彙 - 和文語彙 = ?

 類聚名義抄が総合的辞書なら、訓点語彙も和文語彙も引けば、この結果はほぼゼロになると予想されるのだが、実際はそうではなく、異なり語数で5000語以上の量が残る【*1】。さきの「あげつらう」等の語彙は、その中から特徴的なものを抜きだしたものなのである。つまり、平安時代語の語彙体系の中でもちょっと「めずらしい」語群からのピックアップで、その中に「中抜け」の語があるというのは何かのまだ知られていない仕組みがあると考えなくてはならない。今後、「日国」の改訂作業の中で、なんとか、その謎を解いていきたいと考えている。日本語の歴史にはまだまだ「謎」が多い。

 

参考資料

【*1】 近藤泰弘「平安時代の漢文訓読語の分類」(『訓点語と訓点資料』127集・2011年9月) http://japanese.gr.jp/documents/papers/kunten201109.pdf(2025年8月1日確認)

プロフィール

近藤泰弘

こんどう・やすひろ/1955年岐阜県生。青山学院大学名誉教授。博士(文学)。日本語学会会長を務める。専門は日本語文法理論、文法史、コーパス言語学、自然言語処理。『日本国語大辞典 第二版』の改訂にも関わる。

概要

よ‐てき 【余滴】
(1) 筆の先や硯(すずり)などに残った墨のしずく。
(2) 雨の後のしたたり。
(3) ある作業の副産物。「研究余滴」
(『現代国語例解辞典 第五版』より)

『日本国語大辞典』の改訂作業のなかでの発見や、辞書には記述されにくいこと、辞書からこぼれ落ちてしまうことなどを不定期で掲載します。

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『日国』編集部

この連載は『日本国語大辞典 第三版』の編集に携わっている方からの寄稿記事です。各記事にプロフィールを添えています。

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