
日国余滴
逆の意味―訓点資料の世界―
山本 真吾
今からもう二十年くらい前になるでしょうか。勤務先の大学のキャンパスで、あるとき、「やばい、やばい」と騒ぐ学生たちの声が聞こえてきました。「授業に遅れそうなのかな」「ハチでも出たのかな」と様子をうかがってみたのですが、本人たちにはまったく緊迫した感じはなく、笑顔ではしゃいでいます。よく見ると手には大学近くのお店で売っている話題のスイーツをもち、それをほおばりながら「やばい」という言葉を発していたのです。
「石につまずいてこけそうだ、やばい!」「試験のヤマがはずれた、やばい!」……危険や不都合な状況で用いる、マイナスの意味の言葉が、美味しい、すばらしい、感動的であるといったプラスの意味で用いられることを知って驚きました。
昔の日本語にも、この「やばい」のように逆の意味に変わることがあったようです。
「ささえる」の古い形「ささふ」
現代語の「ささえる」という動詞は〈いつもの状態を保つように助ける〉という意味で用いられています。
「ささえる」という言葉の古い形は「ささふ」でした。
「ささふ」を調べた範囲では、奈良時代の確実な例は見出(みいだ)せず、平安時代の『一字頂輪王儀軌音義(いちじちょうりんおうぎきおんぎ)』に見え、これが今のところ最も古い例です。
「柱」という漢字の読みとして、万葉仮名で「左々布(ささふ)」とあり、元の漢文を見ると、この「柱」字は、両手の指どうしを合わせて「ささふ」つまり、お互いの指を固定して〈いつもの状態を保つように助ける〉の意味で使われていました。今と変わらないことがわかります。
『一字頂輪王儀軌音義』
京都市の高山寺から発見されたという書物。9世紀初期・平安時代頃に成立か。漢文で書かれた仏教の書物『一字頂輪王儀軌』の漢字について、発音(音)や意味(義)を記している。万葉仮名
その漢字の音だけを借りてあて字風に記す方式。例えば「安 (あ) 、加 (か) 」など。
ところが、平安時代の後半頃から鎌倉時代にかけて、この「ささふ」に〈さまたげる・阻止(そし)する〉といった意味が生まれます。
当時の学問の中心は、昔の中国語で書かれた漢文でした。その漢文を読むための書物、「訓点資料(くんてんしりょう)」が今日まで伝わっていて、そのなかで「ささふ」が用いられています。訓点資料の「ささふ」は基本的には多く〈いつもの状態を保つように助ける〉の意味で用いられていました。
訓点
昔の中国語で書かれた漢文を読むためにつけた読み仮名などのこと。訓点資料
昔の中国語の漢文に訓点をつけ、日本語として読めるようにした資料。
ただし、『源氏物語』や『枕草子』のような、平仮名で書かれた古文には動詞「ささふ」は用いられません。
「ささふ」は当時の話しことばで書かれたと推測される古文(古典文学作品)にはなく、訓点資料のように「中国からのお経(漢文つまり中国語)の読解」など、学問の場で用いる語として登場するからです。
〈助ける〉と〈さまたげる〉…いったい、どうして、一見すると逆のようにも思える意味が「ささふ」に加わったのでしょうか。
「ささふ」と「さふ」の類似性
このなぞを解くカギとなる古い書物があります。滋賀県石山寺に伝わる『法華義疏(ほっけぎしょ)長保四年点』(1002年)という書物です。そこには「障」という漢字に「ささふ」のルビが記されています。他の訓点資料を見ると「障」字にはだいたい「さふ」という読み仮名が付けられていますので、この「さふ」との関係が気になります。「さふ(障)」は〈さまたげる、阻止する〉の意味です。
『法華義疏長保四年点』
滋賀県の大津市、石山寺に伝わる書物。仏教のお経を読めるよう、平安時代の後期・長保四(1002)年に読み仮名などを付けた訓点資料。
「ささふ」と「さふ」の二つの語について。まず「ささふ」と「さふ」は語形がよく似ています。「さふ」の語頭「さ」の音を繰り返して「ふ」を付け足せば「ささふ」となります。さらに、一見意味は異なるように見えますが、
・現状を変えないように〈助ける〉=「ささふ」
・現状を変えないように他者からの働きかけを〈さまたげる〉=「さふ」
〈いつもの状態を保つ〉という意味では共通していることが分かります。
この二つの語の形と意味がよく似ているところから、想像をたくましくすれば、「ささふ」に「さふ」の持つ〈さまたげる、阻止する〉の意味が付け加わったのではないかと思われます。そして、この証拠となる実際の例として、石山寺に伝わる訓点資料『法華義疏』の例を挙げることができるかもしれません。
*
揺れる「ささへ」の意味
さて、『平家物語』巻第三「大塔建立」に、次のような記事があります。
〇御修法(みしゅほふ)の結願(=安産祈祷の終わり)に勧賞(けんじやう)(=褒美(ほうび))共(ども)おこなはる。(中略)仁和寺御室ささへ申させ給ふによ(ッ)て、法眼(ほふげん)円良、法印になさる。
――『新編 日本古典文学全集』平家物語
この「ささへ」について、かつて〈支持する、賛同する〉と〈反対する、抗弁する〉という逆の意味で解釈され、ある古語辞典では前者の意味の例として、また別の辞書では後者の例として扱われるといったことがあり、揺れていました。
ただし、古文書に出てくる動詞「ささふ」を調べてみると、鎌倉時代のごく初期から「ささふ」に「まうす」が付いた複合動詞「ささへまうす」という語が見えるようになります。この「ささへまうす」は、訴訟に際し、自己の権利を守るために相手の主張を退けて反対の意見を述べる意味で用いられています。言語行為であることを明示する「まうす」を付けることにより、〈妨げる、阻止する〉から〈反対して言う、抗弁する〉の意味で固定的に用いられるようになりました。
『日本国語大辞典 第二版』では、「ささえる(ささふ)」とは別に「ささえ・もうす(ささへまうす)」として見出し語を掲げ、後者、すなわち〈反対して言う、抗弁する〉の意味を載せ、この例を挙げています。
今日、ここの解釈は、〈反対して言う、抗弁する〉の意味で落ち着いていますが、上の記事について、仁和寺御室(守覚法親王)は果たして〈支持した〉のか〈反対した〉のか、歴史的裏付けはなお得がたく、この箇所を読むかぎりでは、たしかに両様の解釈が成り立つように思えます。
*
古典文学作品のソトの言葉、すなわち、訓点語や文書用語の世界を介して、作品の理解がいっそう深まる事例を紹介してみました。
「ささふ」という言葉に逆の意味が生まれる、その背景には、漢文の読み仮名を今に伝える訓点資料という特殊な書物の存在があったと考えられるのです。
「ささふ」ウサギと、「ささふ」カエル
イラスト/広野りお https://hironorio.myportfolio.com/
参考資料
山本真吾「ささふ(支)」から「ささへまうす(支申)」へ―訓点語から文書用語への史的展開―」(『訓点語と訓点資料』135輯、2015年9月)
機関誌「訓点語と訓点資料」http://kuntengo.com/journal/
プロフィール
山本真吾
やまもと・しんご/1961年大阪府生。東京女子大学教授。博士(文学)。日本漢字学会会長、日本語学会理事。専門は日本語史。特に漢語漢文を軸とした日本語語彙史・文体史。『日本国語大辞典 第二版』の改訂にも関わる。
概要
よ‐てき 【余滴】
(1) 筆の先や硯(すずり)などに残った墨のしずく。
(2) 雨の後のしたたり。
(3) ある作業の副産物。「研究余滴」
(『現代国語例解辞典 第五版』より)
『日本国語大辞典』の改訂作業のなかでの発見や、辞書には記述されにくいこと、辞書からこぼれ落ちてしまうことなどを不定期で掲載します。
プロフィール

『日国』編集部
この連載は『日本国語大辞典 第三版』の編集に携わっている方からの寄稿記事です。各記事にプロフィールを添えています。
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