日本語ハラゴナシ
第20回 「臭い物の命」『知らなかった、ぼくらの戦争』 続々重版中!(アーサー・ビナード編著)
「臭い物に蓋をする」
日本語にこんな見事な比喩がある。人間はこそこそ誤魔化したり不正をしたり悪事を働いたりして、それが露見しそうになった際、とにかく隠そうとする。パッと蓋(ふた)をするみたいに。
人間の言語そのものにも、きれいごとで済まそうとする傾向が強く、歴史の定説や政界の表現は「飾り蓋」だらけだ。が、「臭い物」を正直にストレートに「臭い」と認めて呼ぶ流れもある。その類いの言葉に出会うと、当たり前に驚いてわくわくする。
たとえば、「へくそかずら」というアカネ科の蔓性(つるせい)多年草。本州、九州、四国の生い茂った藪で、ほかの木に巻きついて延びている姿をよく見かける。夏には筒状のオフホワイトの小花をいっぱいつけて、その花びらの内側は赤紫に染まってなんとも可憐だ。おまけになんとも臭い。まさに糞のような、屁が出ちゃったような感じで、べつに花が咲いていなくても、卵形の葉っぱだって蔓そのものだって同じ臭みを孕んでいる。「屁糞葛」とは言い得て妙だ。
ただ、嗅覚を度外視して姿の可憐さだけを捉えた「さおとめばな」というきれいな呼び名も存在する。つまり「臭い物に蓋をする」かどうか、そのときの気分で選んでいい。ぼく自身、だいたい「蓋」をせず「へくそかずら」と呼ぶけれど、何度か森で見つけて手にとって嗅いだりしているうちに、悪臭に対する拒否反応がなくなった。むしろこの植物の強い生命力のエッセンスとして、認める気持ちにもなってくる。
植物から昆虫へ視線を移せば、「カメムシ」というツワモノがいる。体がいたって平べったく、ちょっとした隙間からでも潜り込んで家に浸入してくる。その扁平なところが「亀」に似ているというので「亀虫」と名づけられたらしい。しかし体型よりもっと印象深いのは、身の危険を感じた際にカメムシが放つ悪臭だ。ちょっと触るとすぐジュッと臭い一滴を出すので、英語では正直にダイレクトにstink bugと、そのまま「臭い虫」と位置づけている。
日本語のほうが「臭い虫に蓋をする」名称になっているように見えるが、実は各地には嗅覚に根ざした異名もあり、カメムシは又の名を「へっぴり虫」と呼び、また「くさがめ」とも呼ぶのだ。
ぼくがこれまで覚えた日本語の中で、いちばん飾り気がなく正直で、そしていさぎよいのは「くさや」だと思う。食べ物の商品名になっているにもかかわらず、もろに「臭い」と自己申告している。漢字表記は目にしたことがなく、もっぱら「くさや」と記されるが、意味は「臭いヤツ」と一目瞭然である。もっとも、どう誤魔化しても隠せるレベルの臭みではないし、そもそも好む人にとってはその臭気こそ魅惑の源といえる。
伊豆諸島の八丈島を初めて訪れたとき、海亀といっしょに泳ぎ、火山岩に抱かれて日向ぼっこして、くさやを朝昼晩とかじり、満たされた。味覚と嗅覚だけの体験ではなく、くさやの滋養が全身に行き渡る感覚にひたった。それから毎年のように八丈島へ出かけ、今年も夏の終わりの三日間、山歩きと洞窟探検とくさや頬張りに興じた。
しかもお土産にムロアジやトビウオのとびっきり美味なくさやをどっさり入手。異臭騒ぎにならぬよう幾重にも包んで羽田空港経由で広島まで運び、わが家の窓という窓と玄関も開け放って焼き出した。
春から秋までわが家は鈴虫との共同生活だ。水槽に土を敷き詰めて毎年、土中から生まれてくる米粒大のかわいい子たちがたくましく育ち、盛んに鳴き盛んに交尾し産卵して、また翌年の春に次の代が生まれてくるわけだ。人間も鈴虫も雑食なので、野菜とか果物とか動物性蛋白質のものだって日々分かち合うことになる。
今年の夏までは一度もくさやを与えたことがなかった。ところが焼き始めたら、どうも水槽が妙ににぎやかになり(?)、食べ終わったアジの骨を中へ入れようとしたら、みんな触角を震わせながら近寄ってきて、押し合いへし合いでどんどんかじりついた。干し海老よりも大好物だった。
微生物の営む発酵がどれほどの生命力を秘めているのか、鈴虫もちゃんと嗅ぎつけているのだろう。
八丈島では今回、大賀郷護神山(おおかごうごしんやま)にも参詣したけれど、鳥居から登っていく途中に、ついぞ見かけない碑文が刻まれた玉石が立っていた。
「出征軍人健康祈願」
その存在を教えてくれたのは、島の歴史をずっと掘り下げている教育者の林薫さん。聞けば明治三十七年、つまり日露戦争が始まった1904年に建立されたという。戦地へおもむく仲間が、みんな体を壊さず、負傷も戦死もせず元気にすごして、無事この島へ戻ってこられますようにと、人びとが堂々と祈った証だ。
大日本帝国の「名誉の戦死」だの「み国のために死んでこい」だの「一億火の玉」だののプロパガンダとは、命の扱い方が大きく異なる。思えば、ちょうど与謝野晶子が「君死にたまふこと勿れ」を発表したころの碑であり、土台となる認識はまったく共通している。そのあとの四十年のあいだ、どんな言葉のカラクリと弾圧によって「一億」が「玉砕」へと流されたか、より具体的に辿って点検したくなった。
具体的な根拠はないが、おそらく日本津々浦々に同じように出征する人びとの健康を祈願した碑が建てられたのではないか……ぼくは勝手にそう想像する。
もしかしてその後、碑文が削られたり割られたり埋められたりしたのでは? ぼくの鼻にはそんな匂いが、大賀郷の山から漂ってきた。
概要
アーサーさんが23人の太平洋戦争体験者たちを訪ね歩き、戦争の実態と、個人が争いから ”生き延びる知恵”を探ります。
プロフィール
アーサー・ビナード(Arthur Binard)
詩人。1967年、アメリカ・ミシガン州生まれ。ニューヨーク州のコルゲート大学で英文学を学び、1990年の卒業と同時に来日、日本語での詩作を始める。 詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞、『日本語ぽこりぽこり』(小学館)で講談社エッセイ賞、『ここが家だ── ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)で日本絵本賞を受賞。また、2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。 エッセイ集に『亜米利加ニモ負ケズ』(日本経済新聞出版社)、『アーサーの言の葉食堂』(アルク)、絵本に『さがしています』(童心社)、『ドームがたり』(玉川大学出版部)、翻訳絵本に『どうして どうして?』(小学館)、『はじまりの日』(岩崎書店)、『みんなみんないただきます』(ビーエル出版)、『なずず このっぺ?』(フレーベル館)、ほか多数。 文化放送「アーサー・ビナード 午後の三枚おろし」(月~金、17時30分過ぎからOA)にも出演。
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