第二十回 「甲子園ですが、ファールボールにご注意を」

 突然ですみませんが、私は兵庫県西宮市に暮らす、阪神甲子園球場というものです。
 甲子園です、と言われても困る?
 そうですね、長年この場所で球児たちの汗や涙を吸ってきた「場」が、こざかしくも知恵を持ったものとお考えいただければと思います。少年たちの純な体液……いやいや闘志やフェアプレイ精神は、何よりの栄養分でありました。
 今、はるばる東京に意識の触手を伸ばし、吉田さんという漫画家をあやつってこの一文を書いているわけですが、そのきっかけになったのは、今年、2009年度春の選抜高校野球大会でした。
 吉田戦車さん、この方は岩手県のご出身。
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、今年の選抜では岩手県勢として初めて、花巻東高校が決勝に進出したのでした。吉田さんもテレビで準決勝を見ていてたまらなくなり、翌日はるばる新幹線に乗って私のもとへ駆けつけたというわけです。
 4月2日、木曜日。
 試合があるたびに、私を訪れる何万人もの人のことを、私は見たり感じたりしているわけですが、さすがにちょっと目をみはりましたよ。人間の名前もいろいろですが、戦車などという名の人は初めてだったものですから。
 3塁特別自由席の一角に陣どった吉田さん、何やらニヤニヤしております。

 吉田さんは少年時代、私の一部である阪神タイガースのファンであったということですが、その後太洋(横浜)だ広島だと浮気を重ね、今は特にどこのファンということもないようです。
 熱心な野球ファンじゃないけれど、仕事中にテレビやラジオをつけっぱなしで聴く春夏の高校野球の雰囲気は好むようで、生まれて初めてようやく私のところ、すなわち甲子園に来た、という喜びがあったようでした。
 脳裏をさぐってみますと、甲子園駅で降りる直前の、地元のおじさんたちの会話を反芻しております。
「阪神電鉄大もうけや」
「プロが開幕したらもっとな」
 そんな、私がいやになるほど親しんでいる地元のお父さんたちの会話に、吉田は感動していました。漫画家というのは妙なものですね。
 メモ帳にその会話を書きつけ、おそらくは仕事の取材も兼ねようということらしいのですが、どうも吉田は数年間描いていたスポーツ漫画の連載を終えたばかりらしく、メモをとる顔に、ふとむなしい表情がうかびます。メモってもしょうがないのに、ということでしょうか。
 野球漫画といえば私は水島新司先生をはじめとする本格派しか知らず、吉田の名など聞いたこともありませんが、またいつか何か描く時の参考になるといいね、と思いました。
 試合開始直前、吉田は買っておいたカレーをあわただしく食べ始めました。
 観戦に集中したいという気持ちやよし。たしか私の名をとり「甲子園カレー」として売られているカレーライスを、無表情に食べ進みます。
 あれ? 不満げな顔。
 いつも行列ができる甲子園カレー、その美味は確かなはずなのに、何が不満なのでしょう。
「関西っぽさが特に感じられないものを食べてしまった……」
 うまいことはうまかったようなのに、この気落ち。決勝戦開始直前なのに、もう試合後に何を食べるか考えはじめている様子は、本気で故郷の代表を応援しにきたのかこの野郎、と思わずにはいられませんでした。
 漫画家を観察しながらも、もちろん注意のほとんどは試合に向けています。好投手を擁する両チーム。試合は予想通りの投手戦となっておりました。
 プロフェッショナルとしての「球成人」たちもすばらしいですが、やはり球児たちのある種のつたなさ、未熟さは、何度見ても愛しいものです。
 未熟といいましても、何千、何万と白球を追ってきた野球小僧たちゆえ、そのフィールディングは常人ばなれしているわけですが、そのはずなのになぜそこで落とす! みたいなプレイも時折見られ、たまらない青春感をかもしだします。
 あーーー、落としちゃったね、残念だ、悔しいね、気分を切り替えろ、でも君のせいですごくピンチだ。
 自責と緊張感にパチクリする瞳。チームメイトたちの「ドンマイ、気にするな」の視線、すべてが何度見てもたまらず、泣きそうになります。プロ野球でも同様のシチュエーションは見られないこともないけれど、おっさんたちのエラーなど腹立たしいだけ。やはり少年たちのミスだからこそ、その場の空気は光り輝くのでしょう。
 さて、漫画家も手に汗にぎり、時に声を出しながら花巻東を応援しております。
 おや? ですが先ほどから、となりに座る少年たちをチラチラ気にしているようですよ。
 漫画家の左横には、坊主頭の日に焼けた少年が5人並んでおりました。小学6年生が二人、5年生一人、4年生二人。今回の一枚(クリックすると大きく表示します)少年野球のチームメイトたちのようです。姓名も読みとりましたが、もちろん省略いたします。
 弁当やお菓子を食べ、ドリンクを飲む少年たちの会話を耳にした吉田の目が、ぱっと輝きました。
6年A「卵むくの得意な人」
6年B「ゆで卵? オレだめ」
4、5年生「はい!」「はい!」「はいッ!」
 いそいそと先輩のゆで卵をむきはじめる下級生、特に礼をいうでもなくサンドイッチをほおばり続ける先輩の様子を、吉田はうっとりとながめています。メモ帳をとりだし、試合そっちのけでそれらを書きとめはじめた。
 これが、何かの役に立つのでしょうか。吉田が描いていたというスポーツ漫画とは一体どういうものなのか、ますますわけがわからなくなりました。
 ともあれ試合は1―0で長崎県、清峰高校が初優勝。花巻東もよくがんばった。漫画家の目にも、悔しさではない涙がにじんでおりました。
 涙が渇くと記念タオルを買い求め、大阪市内に移動。タコ焼きを食べて口の中を焼いてから新幹線で家路についたようです。

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