第9回 幻の「東京ホテル」を探す地図の旅(後編)

2015年8月3日 山根一眞

明治の古地図が見られるサイト

 フィリピン独立運動の英雄で、後にスペインによって銃殺刑に処せられたホセ・リサールが、1888年(明治21年)、滞在中の日本で出会った恋人、臼井勢以子(おせいさん)と愛の日々を送った東京・日比谷の「東京ホテル」。
 いったい、それはどこにあったのか?
 その記載がある地図はないだろうか……。
 あれこれ探して、明治期の地図が数多く公開されているサイトが見つかった。
 国際日本文化研究センター(大学共同利用機関法人、人間文化研究機構、京都市西京区御陵大枝山町)だ。
 ここの「所蔵地図データベース」には、平安時代末期〜鎌倉時代の『花洛往古図』から1975年(昭和50年)『最新日本全図』まで、実に771点の地図がある。明治期だけでも253点にのぼる。
  その各地図がブラウザ上で表示、拡大閲覧ができるという。規模のすごさには、のけぞりました(さすが日文研!感謝、感謝です)。
 早速、この「所蔵地図データベース」で明治期の253点の地図を検証。
 もちろん、この253点には京都や尾張、横浜、日光など東京都心部以外の地図も含まれてはいるが、圧倒的に多いのは東京の地図だ。
  その各地図がブラウザ上で表示、拡大閲覧ができる規模のすごさには、のけぞりました(さすが日文研!感謝、感謝です)。かくして、この地図データベースの山から「東京ホテル」を探す旅が始まったのでした(えらいことを始めてしまったと反省しつつ作業は続いた)。
 「東京ホテル」が幕末に建設されたことはないだろうとは思うが、確認のため明治維新の9年前、1859年の「安政江戸図 御江戸絵図」を見たが、やはり大名の名のある屋敷ばかりだった。
現在の日比谷界隈の地図。(出典:Goo地図)。古地図は「北が上」という「地図の大原則」で統一されていないものが多いため、位置関係がとてもわかりにくい。そこで以下のすべての明治古地図は、この現在の地図と方角が同じになるよう回転処理を行った。★のマークは、日比谷公園のリセ・ホサールの像の位置(古地図では推定位置)。
『安政江戸図 御江戸絵図』(1859年・安政6年)出典:国際日本文化研究センター・地図データベース(Copyright (c)2006- International Research Center for Japanese Studies, Kyoto, Japan. All rights reserved)、以下同。
 前回までの地図調べで、日比谷界隈には軍関係の施設が多かったことを知ったが、1879年(明治12年)の「明治十二年東京全図」では、幕末まで現在の日比谷公園の場所に連なっていた大名屋敷は一掃されて「陸軍操練所」になっていることがわかった(明治維新とは大都市改造でもあったのだ)。
『明治十二年東京全図』(1879年・明治12年)。
 1881年(明治14年)の「名勝圖解東亰御繪圖」では、「陸軍操練所」は「陸軍練兵所」と名称が変わっていて、かつ、現在の帝国ホテルの場所は「博物館」だったようだ。うむ、それも調べてみたいが、肝心の目的の「東京ホテル」は見つからない……。
『名勝圖解東亰御繪圖』(1881年・明治14年)。
 この地図データベースに収載されている明治初期の地図は、国土地理院型の正確な地形図ではなく、いわば「町案内型の地図」が多い。江戸時代の地図のように地理的な位置関係が正確ではない「手描き」が多いが、施設名や、施設を俯瞰した「絵」が入っているものが多く面白い。
 そういう地図の一つ、1886年(明治19年)の「明細新選東亰全圖」で日比谷界隈を見た。建物や門など、ホント、「ヘタウマ」の絵だが、一点、気になる建物の図が描かれていた(地図上に○で示した)。
『明細新選東亰全圖』(1886年・明治19年)。
 この建物、あの国立国会図書館に1点だけあった「東京ホテル」の写真に似ていなくもない。2階建てで窓が1フロアに5つだが、「東京ホテル」の写真でわかった「2階建(一部4階建)の瀟洒(しょうしゃ)な洋館で、窓の数から推定するに部屋数はわずか14〜15」を略して描いていたのではないか?

日比谷公園の場所には仮の国会議事堂が

その場所は、現在地でいうと日比谷公園の東北角、日比谷交差点を銀座方面に渡った左手だ。丸の内警察署やニッポン放送があるあたりだ。
リサールが恋人、おせいさんと「東京ホテル」で過ごしたのは1888年(明治21年)。その2年前の地図なのだから、「東京ホテル」の可能性はある。
俄然、元気が出てきた。このポイントにしぼって、以降の地図を調べてみよう。
翌年、1889年(明治22年)の「改正明細東亰圖付横濱全圖」にも記載があるに違いないと思ったが、こちらにはなし。
いやいや、めげないぞと1890年(明治23年)の「改正東亰全圖」を見たところ、同じ場所にやはり2階建ての建物の「ヘタウマの絵」。窓が3つしか描かれていないが、これ、やはり「東京ホテル」じゃないのか。もっとも、この一角には「陸軍裁判所」「教導団工兵」など軍関係の施設が描いてあるので、この建物もホテルではなく兵舎かもしれない。

『改正東亰全圖』(1890年・明治23年)。

この地図を見て驚いた。今の日比谷公園のエリアから「陸軍練兵所」が消えており、代わりに「国会仮議事堂」の建物がドンと描かれているのだ。そりゃ、何だ?(と、また脱線)
「ジャパンナレッジ」(「日本大百科全書」)では「国会議事堂」の項で次のように記していた。
1890年の第1回帝国議会の召集にまにあわせるため、現在の東京都千代田区霞が関(かすみがせき)1丁目(現経済産業省構内)の位置に木造の仮議事堂が建築された。
国会仮議事堂は、日比谷公園ではなくその西側、現在の霞ヶ関に建てられたという。そこで「改正東亰全圖」をよく見ると、どうも仮議事堂の「ヘタウマ絵」を大きく表現するために、現・日比谷公園のあたりにはみ出して描いたらしい。それは、この地図の施設の位置関係はかなりいい加減だということを意味している。と、なると、丸の内警察署やニッポン放送界隈にあったあの建物は「東京ホテル」ではないのかもしれない。
ちょっとめげつつ、1891年(明治24年)「改正東亰測量里程新圖」を表示し、日比谷界隈をクリック拡大したところ、何の意味なのかべったりを赤く塗りつぶされた場所のひとつで黒い文字が読めた。
「東京ホテル」!

『改正東亰測量里程新圖』の全図(1891年・明治24年)。

『改正東亰測量里程新圖』の日比谷界隈を拡大。

『改正東亰測量里程新圖』に記されていた「東京ホテル」。

苦節ウン月、ウン日、ウン時間、ついに見つけたぞ、「東京ホテル」!!
その場所は、何と、現在の日比谷公園の、あのリサールの像の日比谷通りをはさんだ、はす向いの真正面だった。
ブロンズ像の碑文に刻まれていた
フィリピンの国民的英雄
ホセ・リサール博士
1888年この地
東京ホテルに滞在す

「この地 東京ホテル」が古地図上で確認できた一瞬だった。

ペンで日付が書かれた明治27年の領収書

リサールがフィリピンで銃殺に処されたのは1896年(明治29年)だが、その前年、1895年(明治28年)の「改正實測東亰全圖」には、クリアに「東京ホテル」の名があった。

『改正實測東亰全圖』(1895年・明治28年)にも「東京ホテル」の名が!

さらに、1897年(明治30年)の「東京一目新圖」では、「東京ホテル」の名称入りで、建物の絵も描かれていた(これも「ヘタウマ」だが)。

『東京一目新圖』(1897年・明治30年)の全図。

『東京一目新圖』に絵とともに記載されていた「東京ホテル」。

ちなみに日比谷公園のあたりが空き地になっているのは、1903年(明治36年)の日比谷公園の開園に向けて工事が始まっていたからだろう。
しかし、この1897年(明治30年)以降の明治期の地図5点には、もはや「東京ホテル」の名はなかった。
リサールとおせいさんの愛のモニュメントは、リサールの死とともに消えていったことになる。どんな事情で、いつ、「東京ホテル」は消えたのだろう?
もはや幻となった東京都心の小さなホテル。
日比谷にあったそのホテルが消えておよそ120年、もはやその実態は1点の写真と3点の地図以外には空想でしかつかめない。
私の「東京ホテル」を求める「調べもの」の旅も、そろそろ終止符を打つ時だと思っていた矢先のことだ。
某所で、とんでもないものを入手してしまった。
それは、ペン書きで1894年(明治27年)3月6日の日付が記され、1銭の証券印紙(後の「収入印紙」に相当)が貼られた小さな領収書だ。そこには、以下のような英文による住所と発行者名が印刷されていた。
’TOKYO HOTEL’
N0.2, Sanchome, Yurakucho, Hibiya

1894年3月6日付の東京ホテルの領収書。(山根一眞所蔵)

「東京ホテル」に4泊滞在したインド人の顧客が、宿泊料として17ドルを支払い受け取ったものという。1泊につき4ドル50セントの記載があるが4泊分なら18ドルのはず。なぜ1ドルの割引料金なのかはわからないが。支払いがドル建てというのにも驚いた。英文ばかりで記されていることから、「東京ホテル」は外国人専用のホテルだったのかもしれない。
赤茶けた小さな領収書一枚にすぎないが、とてもモダンなTOKYO HOTELの英文字とも相まって、地図上の空想的な旅で探し続けてきた「東京ホテル」が、突然、実態をもって私の目の前に姿を現したのである。
これが、「調べもの」。
これが、「調べもの」の醍醐味。

領収書に印刷されていた東京ホテルのロゴ。


幻の東京ホテルの場所がやっとわかった数日後、クルマで日比谷通りを走り日比谷交差点を抜けたところ、かつての東京ホテルの場所では大規模な再開発工事が始まっていた。これは、何なのだろう?

日比谷交差点の先、帝国ホテル手前の東の一角(右手が日比谷公園)で大規模工事が始まっていた。(写真・2015年7月25日、山根一眞)

2018年 日比谷が再び輝きだす
都心型スマートシティ ~国際ビジネス・芸術文化都心「日比谷」の街づくり~
「(仮称)新日比谷プロジェクト」着工
http://mitsuifudosan.co.jp/corporate/news/2015/0323_02/index.html

「(仮称)新日比谷プロジェクト」の計画図にかつて「東京ホテル」があったと思われる場所を重ねてみた。(元図出典:三井不動産)

三井不動産が、「三信ビルディング」(1930年・昭和5年竣工)と「日比谷三井ビルディング」(1960年・昭和35年竣工)を取り壊した跡地で進めている再開発計画、「新日比谷プロジェクト(仮称)」とわかった。昨年末に東京圏で初の「国家戦略特区」の区域の認定を受け、今年の1月28日着工していたのだ。竣工予定は2018年1月末。
ここは「三井ゆかりの地」であることから、「東京ホテル」もひょっとすると、三井財閥関係のゲストハウスだったのかもしれない・・・・・・。
ホセ・リサールが「東京ホテル」に滞在したのは1888年。そのちょうど130年後に、「東京ホテル」があった場所は、まばゆいばかりの新街区となる。
ここに、新しい時代にふさわしい、瀟洒でコンパクトな新たな「東京ホテル」を作ってほしいと願っているのは私だけでしょうね。

「東京ホテル」(写真左・国立国会図書館所蔵)があった土地はおよそ130年を経て東京で最も新しい街区になる(図右・出典:三井不動産)。「東京ホテル」は★のあたりにあったと思われる

<第9回了>
≪文中でご紹介したサイトへのリンク≫

「国際日本文化研究センター」トップページ
http://www.nichibun.ac.jp/ja/

「国際日本文化研究センター/所蔵地図データベース」
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/menu.html

「ジャパンナレッジ」トップページ
http://japanknowledge.com/personal/

「ジャパンナレッジ/日本大百科全書」
https://japanknowledge.com/contents/nipponica/index.html

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