第8回 幻の「東京ホテル」を探す地図の旅(前編)

2015年7月21日 山根一眞

まだまだ続く「日比谷公園の謎」

 この連載の第2回『日比谷公園の「謎」』で、日比谷公園の一角にあるフィリピンの英雄、ホセ・リサールのブロンズ像が、なぜここに建立されたのかを探った。
 ブロンズ像が建てられたのは、1888年(明治21年)。ホセ・リサールが滞在した「東京ホテル」がこのすぐそばにあったからで、そこはリサールが(たぶん)一目惚れしてラブラブとなった知的で美しい女性、臼井勢以子(おせいさん)と過ごした場でもあったという。
 この像は日比谷通りに面する場所にあり、その右はす向かいには帝国ホテルがあるため、「東京ホテル」とは帝国ホテルの旧名称だろうと思ったのだが、リサールの滞在年には、帝国ホテルはまだ開業していないことがわかった。

 

 1888年(明治21年)リサールが「東京ホテル」に滞在
 1890年(明治23年)帝国ホテル開業

 

 では、「東京ホテル」って、どこにあったのか?
 いかにもありそうな「東京ホテル」という名のホテルは、今はない。幻の「東京ホテル」を探し、やっと国立国会図書館でその写真を1点のみ見つけることができた。
 2階建(一部4階建)の瀟洒(しょうしゃ)な洋館で、窓の数から推定するに部屋数はわずか14〜15。確かに、これは帝国ホテルとはまったく違う小さな木造ホテルだ。
国立国会図書館で見つかった「東京ホテル」の写真。出典:国立国会図書館のWEB
 住所は、麹町区有楽町(明治期、現在の千代田区有楽町)とあるが、これだけでは正確な位置がわからない。
 国立国会図書館のこの写真には、「東京市及接続郡部地籍地図」という当時の地図へのリンクもあったっが、その地図は1912年(大正元年)の発行で、「東京ホテル」の記載はなかった。つまり「東京ホテル」は、リサールが滞在した1888年から24年後の、この地図が発行されたときにはすでに消滅していた可能性が大きい。まさに幻のホテルだ。
 国立国会図書館の全データ検索でも、1点の写真以外にはまったく文献、資料、情報は見つからなかった。ネット検索でもこの写真以外の情報はなかった。といって、ここで諦めては「調べもの極意伝」としてはじくじたるものがあり、ずっと気になっていた。
 そこで、ふと思った。調べた地図は大正元年の地図1点のみだったので、それより古い地図には記載があるかもしれない。古地図には膨大な情報が載っているが、古地図には地名や施設名の索引がないため、記載があっても書籍や文献のデータベースでは出てこなかった可能性がある。
 そこで、幕末から明治初期以降のあらゆる地図で、この日比谷界隈、有楽町周辺を探してみることにした。国会図書館にも日比谷図書文化館にも、江戸や東京の古地図はかなり収蔵されている。
 だが、その大半は出かけていって閲覧するしかない。
 私は東京在住なので行くことはできるのだが、「調べもの」は東京在住者だけがするわけじゃない。
 たとえば青森県弘前市の在住者が同じことを調べたいと思っても、弘前~東京の往復に新幹線を利用した場合、往復運賃だけでも3万5000円以上かかる。東京の宿泊料金も含めれば5万円は用意しなくてはならないだろう。
 書籍であれば、他の公共図書館の書籍を最寄りの公共図書館に取り寄せてもらい閲覧することもできるが、古地図のような貴重資料では難しい。
 このような東京の文化偏重問題を解消してくれるのが、ネット上ので貴重資料の公開、検索、閲覧だ。
 という思いから、明治古地図での「東京ホテル」探しを、ネット上でどこまでできるかに挑戦することにした。

今昔を比較できる地図サイトを発見!

ここで思い出したことがあった。
かなり以前だが、日本最大の辞書・事典サイト「ジャパンナレッジ」にいくつかの地図データがあり、その中に、現在の地図を表示したあと、クリックすると明治期や江戸期のまったく同じ場所の地図が表示され、新旧の地図が比較できるサービスがあった。
私の生家は東京・東中野だが、祖先がここに住んで400〜500年になると聞いていた。そこでこの新旧地図で調べたところ、多くの発見があったことを思い出したのだ。ところが、その新旧比較地図のサービスはなくなっていた。
あのような新旧地図を比較できるサービスがないかをネットで検索したこところ、「時系列地形図閲覧ソフト・今昔マップ2」というものが見つかった。
地域の過去を知るには地形図を見るのが一番です。このソフトを使えば、首都圏、中京圏、京阪神圏、札幌、仙台、広島、福岡・北九州、岩手県・宮城県・福島県の海岸部の明治・大正以降現在まで、地形図を使って変化を見ることができます。収録した旧版地形図は、1,759枚にのぼります。
おお、これはすばらしい!
だが、こう記してあった。
「今昔マップ2」は開発を終了しました。
ダウンロード・インストールは可能ですが、今後の更新の予定はないので、「今昔マップ on the web」サイトをご利用ください。

ダメかと思ったが、どうやらウェブ上では使えるらしい。
この”古今比較地図”の開発者は、埼玉大学教育学部の谷謙二さん(人文地理学研究室)だ。
こういうものを創作したとは、何ともえらい!

「今昔マップ on the web」のホームページ。

早速その地図サイトで「首都圏編」をクリックし、日比谷界隈を検索してみよう。

だが、あれま。用意してある比較地図は「1896〜1909年」から「1998〜2005年」までの9点と「(国土)地理院地図」の10点で、1868年(明治元年)から28年間の地図はないのだ。リサールが「東京ホテル」に滞在したのは1888年なのだが、記載されているだろうか?

「今昔マップ on the web」で明治期(1896-1909)の日比谷を表示。

いちおう「1896〜1909年」をクリックしてみたが、やはり日比谷界隈に「東京ホテル」の名はなかった。
この比較地図の「古」の方は、明治期では「1/20,000地形図」(現・国土地理院)をもとにしている。つまり「地形」の比較はできるが「施設」の盛衰はわからないという理由もありそうだ。
この「今昔マップ」のサイトには、こんな説明もあった。
2画面表示時の右側に表示できるデータは、今昔マップ収録データセットのほかに、外部のデータを含んでいます。
その「外部のデータ」の一つに「歴史的農業環境WMS配信サービス(関東平野)」というものがあり、気になった。

「軍事戦略ありき」だった明治の地図作り

それは、独立行政法人農業環境技術研究所によって公開された「歴史的農業環境閲覧システム」の明治期の迅速測図画像だ。
そこで、「歴史的農業環境閲覧システム」を表示してみた。

「歴史的農業環境閲覧システム」のホームページ。

このサイトにはこういう説明がある。
明治初期から中期にかけて関東地方を対象に作成された「迅速測図」と、現在の道路、河川、土地利用図とを比較することにより、農村を取り巻く環境の歴史的な変化が閲覧できます。
だ、そうだが、何かわかるかもしれない。
早速「東京」を表示し、日比谷界隈で拡大したが、おお、ここでも新旧地図比較ができるではないか。しかも、「歴史的農業環境」といっても、ここでは「歴史的都市環境」もよくわかる優れものだった。『電子国土賞2012』のコンテンツ部門の受賞作品だそうだが、確かにとてもよくできていて感銘。

「歴史的農業環境閲覧システム」の比較地図で日比谷界隈を表示してみた。

その比較地図で日比谷界隈を表示・拡大・閲覧してわかったことは、現・日比谷公園は「陸軍操練場」であり、日比谷公園の東(現在の有楽町駅前の東京国際フォーラムの西から南にかけて)も「練兵場」だったことだ。明治期、この界隈は軍の施設が多かったようだ。

「日比谷於練兵場ニ陸軍諸隊整列式之真図」(歌川広重)に描かれている日比谷の練兵場。建物が描かれているので拡大してみたが(下)、「東京ホテル」らしきものはない。出典:早稲田大学古典籍総合データベース

もっとも、やはり「東京ホテル」の名はなく、また、この明治期の地図がいつ発行されたのかの記載もないのは残念だった(「明治初期から中期」と記載があるのみ)。
明治期、東京は急速な近代化が進んでいたため日々変貌をとげており、施設の移転や新築が多く、地図情報は正確な発行年がわからないと、「その時」「その場所が」がどうなっていたのかがわからない。「発行年」にはこだわってほしいと思う。
明治期の地図を閲覧できるサイトやソフトはかなり多くあるが、それらで採用している「正確な地図」は国土地理院(旧・兵部省参謀局間諜隊、陸軍参謀本部測量局、のち陸地測量部など)が作成した「地形図」が中心だ。
明治の古地図であっても現在の地図と比較ができるのは、これら正確な測量に基づいて作成された「地形図」が用いられているためだ(「案内地図」などでは位置関係の正確さはない)。その地図上には駅や公園など公共性の高い施設の名称は記しているが、ホテルのような民間施設はよほど有名なものでなければまず記載がない。
これら官製の正確な「地形図」について、かつて、国土地理院の地図製作者(永井信夫さん)との対談で聞いた話を思い出した。
5万分の1の地図には、必ず郵便局の〒マークが入っているでしょう。郵便局のある集落は地域の中心。軍事的には、まずおさえるべきポイントです。それに特定郵便局は土地の有力者がやっていましたから、そこに軍隊の本部を置ける。
(「家一軒0・4ミリ角で手書きの地図」:単行本『「メタルカラー」の時代』1993年、『文庫版「メタルカラーの時代3」』1998年、いずれも小学館刊)に収載。
〔編注/文庫版は電子書籍もあります〕
軍事拠点となりそうなものは描いてあるが、都心といえども2階建で部屋数わずか14〜15なんていうプチホテルは、官製地図には描かれるはずがないのだろう。描いておくことは、後世の歴史資料として大事になるのになぁ。
それにしても、「東京ホテル」はいったいどこにあったんだ?
<第8回了(後編に続く)>

≪文中でご紹介したサイトへのリンク≫

「今昔マップ on the web」
http://ktgis.net/kjmapw/

「歴史的農業環境閲覧システム」
http://habs.dc.affrc.go.jp/

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