第11回 石に刻む
広島ほど石碑の多い街が、果たしてほかにあるだろうか。句碑や歌碑、記念碑の類いもあちこちに立っていて、けれどなによりも慰霊碑の数々だ。ぶらぶら歩いていると目について、足をとめて碑文を解読し、思いを馳せて手を合わせ、それから再び歩き出すと、すぐに別の石碑に会う。また立ち止まり碑文を読んだりして、再出発するとまたまた遭遇して、広島散策はかならず途中で日が暮れる。
もちろん石碑が多過ぎるとは、ちっとも思わない。広島の街で起きたことを考えれば、もっともっと石に刻んでいかなければならないと思えてくる。
ただ、隈(くま)なく歩いて細かくいろいろ点検してみると、余計というか不要というか、場所ふさぎとでもいうべきか、ま、なくてもいいかなと思える碑も、あるにはある。たとえば、原爆ドームから元安川沿いに下流へ進み、元安橋の東詰めのオープンカフェをちょっと過ぎたあたりに、句碑がでんと構えている。立派な自然石に「悲しみの夏雲へむけ鳩放つ」と刻んである。
「夏雲」が歳時記からもらった季語で、それを「悲しみの」と形容しているが、どうにも新鮮味はなく、無難な表現に終わっている。「鳩」で結んでいる点も当たり障りがなく、なにかを言い表しているというより、題材に寄りかかって五・七・五を器用に埋めている印象だ。
端っこに作者名の「康弘」も刻まれている。そして碑の裏面には「昭和六十二年十月に建立 内閣総理大臣中曽根康弘書」とある。ぼくは元安川のほとりを歩くたびに「もったいないなぁ……石のおもてを削って白紙にして、もっといい句を刻んだらどうか……」などと思い、広島の「不要碑」の代表格としてとらえていた。
ところが七月の最後の日曜日に、句碑の前を通ったら、一羽の鳩がそこでなにやらついばんでいるではないか。あらためて「鳩放つ」という結句を、鳩の身になって見つめると、ひどく大雑把な描写に感じられた。
内閣総理大臣が鳩を「放つ」のではなく、実際は広島市長の「平和宣言」が終わった瞬間に鳩が「放たれる」のだ。それもいっぺんに数百羽が。いや、鳩の目から見れば「放たれる」という表現もズレていて、「飛び立つ」といったほうが正確だろう。
そう気づいたら、今度はあの平和記念式典の鳩たちがどこからくるのか、飛び立ってどこへ行くのかを、どうしても知りたくなった。八月五日の夜、平和公園へ出かけ、慰霊碑の、向かって左側にずらっと並べられた鳩の檻の前で待つことにした。まもなく市の職員が現れ、おっつけ金網が張られた軽トラックもやってきて、鳩たちの準備が始まった。
話を聞けば、式典で活躍する約七百羽は全員、伝書鳩だという。飼育してばっちり訓練を積ませている複数の達人に、広島市が毎年頼んで、北からも南からも運んできてもらう。設置された大きい檻は十個、それぞれ三階建てになっていて、金網の扉は一気に開く仕掛けだ。呉(くれ)から来た鳩たちを、ぼくは観察したが、檻の中へ入ったらみんなで「クルルルル、クルルルル、クルルルルル」と声をかけ合い、朝の仕事をちゃんと意識して待機している雰囲気だった。中には去年も活躍したベテラン鳩もいたかもしれない。
そして明くる日、午前8時15分の黙祷(もくとう)が終わり、市長の冴えない宣言も「……ここに誓います」で締めくくられると、七百羽が一斉に飛び立った。上空で美しく旋回し、いくつかの緩やかな群れに分かれ、「ごくろうさん」「気をつけて」「熱中症にならないにようにね」「また来年!」なんて会話しているふうにも見えた。じっと眺めていると、途中で一羽だけ違う方向を目ざす鳩も…。道草を食って帰るのか、年に一度の逢瀬を楽しむのか。みんなの無事を祈って、夏雲に吸い込まれる思いだった。
そこでふと苦笑した。ぼくが「不要碑」とさげすんでいた中曽根康弘のあの句碑が、不要ではなく愉快な発見につながったのだ。駄句に変わりはないけれど。
広島の数ある「重要碑」の中で、もっとも鋭く本質をとらえ、いちばん心に沁みるのは「市立高女職員生徒慰霊碑」だと思う。「鳩放つ」の句碑から元安川に沿ってさらに下り、平和大橋で西岸へわたると、すぐ下流の西詰めに赤みがかった御影石がひっそりと立っている。
おもてに三人の少女が浮き彫りにされ、まん中の一人が両腕に長方形の箱を抱えている。それは生徒たちと先生たちを殺したものを表わしているが、箱に「原子爆弾」と書いてあるわけではない。遺族が碑を建立した1948年は米軍の検閲が厳しく、プレスコードによって広島と長崎を伝える表現がほとんど禁止されていた。「原子爆弾」はダメ、「原爆」も「核兵器」もいけない、「ピカドン」も論外。英語の「atomic bomb」だって許可は出なかっただろう。
市立高女の少女が持っている箱に、はっきりと刻んであるのは「E=mc」。つまりアインシュタインの相対性理論の公式、人間が引き起こす核分裂のエネルギーだ。さすがのGHQでも、化学式を禁ずることはできなかった。
「E=mc」の箱に、広島上空の核分裂の連鎖反応はもちろんのこと、チェルノブイリの核分裂も含まれる。同時にニューメキシコとネバダの実験所、セミパラチンスクの実験所、スリーマイル島と福島の核分裂も、いま大飯の三号炉と四号炉で起こっている核分裂も、あの慰霊碑の範疇(はんちゅう)にすっぽり入る。
「平和大橋」や「平和大通り」や「平和公園」、「平和記念資料館」、「平和憲法」にまぎれこんだ「平和利用」の名のもとで、一九四五年八月六日の破壊はずっと続いている。原子爆弾か原子炉か、核兵器か核燃料か、生活を瞬時にピカアアアッと破壊されるか、ジリジリむしばまれていくのか、市立高女の生徒が抱えている箱のエネルギーに、ぼくらが終止符を打つことができるか。
もしできたなら、そこで初めて本物の平和大橋を、わたっていける気がする。
中曽根康弘句碑
句碑裏面
平和記念公園
今年の平和式典で活躍した鳩たちの置き土産
市立高女職員生徒慰霊碑1
市立高女職員生徒慰霊碑2(裏)
裏側に刻まれているのは…
友垣に
まもられながら
やすらかに
ねむれみたまよ
このくさ山に
昭和弐三年八月六日
宮川雅臣