第10回 みなまでいわなかった「さいたさいた」
「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」という日本語を目にすると、どんなイメージが浮かぶだろうか。ぽかぽかした春の日の散歩? にぎやかな花見の宴? 子どもたちの声がこだまするメルヘンといった感じ?
ぼく自身はといえば「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」ときたら、すぐ思い浮かぶのは『サクラ読本』と呼ばれた戦前の教科書だ。昭和8年に発行され、翌年から尋常小学校で使われ、正式名称が『小学国語読本』で、『第四期国定国語読本』とも称された。それ以前の国語教科書では、まず単語を勉強してから文章のほうへ進んでいったのに対し、『サクラ読本』はいきなり「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」から始まる。その意味では当時、かなり新鮮味があったらしい。ただ、ぽかぽかした春を純粋に歌い上げているかというと、そんなメルヘンが基調というわけではない。なにしろ「サクラ ガ サイタ」のあとに「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と続くのだから。花見気分よりも戦時気分が濃厚な一冊だ。
それでも、学校で『サクラ読本』が使用されていた時代は、原子炉というものがこの世に存在せず、人間は核分裂の連鎖反応を起こして人工的に放射性物質を大量に作り出す所業には至っていなかった。プルトニウム239だのストロンチウム90だのセシウム137だの134だのが、ばらまかれる心配などなかった。桜の花も梅の花も蜜柑の花も茶の花も栗の花だって、核汚染によって蝕(むしば)まれることはあり得なかった。「ススメ ススメ」と駆り立てられるヘイタイたちも、核武装はしていなかった。
日本で春を迎えて花見に興じるのは、ぼくにとって今年が22回目となる。最初の数年の間に、樹下で食べたり飲んだり唄ったりと楽しみ方を体験して、花見はもうじゅうぶん分かったつもりになっていた。ところが21世紀に入ってから、実は「花の身になっての花見」もあると知ったのだ。それは放射性物質が生き物に及ぼす影響の実態を知りたい市民が、「サクラ調査ネットワーク」を立ち上げて、広島の原爆桜、柏崎刈羽原発近くの桜、玄海原発近くの桜、六ヶ所再処理工場近くの桜など、全国各地で基準木を決めて始めた作業だ。丁寧に花を数えて、花弁や萼(がく)に異常が現れていないか隈(くま)なく調べ、声なき樹木の警
告に耳を澄ます。
毎年あらたに生まれかわる美しい花に注目して、低線量被爆の問題を捉(とら)えるその調査の結果に、ぼくは目を見開かされた。たとえ「年間20ミリシーベルトまでは問題ない」とか、「100ミリシーベルト以下は影響ない」とか、学者がそんな線引きで人々を安心させようとしても、生き物にとって実際は安心できる「しきい値」など存在しないと、桜の花の異常が教えてくれる。
福島第一原発の1号炉と2号炉と3号炉がメルトダウンをきたし、4号炉のプールも大きく破損して、日本列島が大量の放射能汚染に見舞われる中で、「サクラ調査ネットワーク」の花見はより一層、重要な意義をもつ。ぼくは、今年の春は「桜前線」の動きが注目される前に、自分がこれまで花弁から学んだことを伝えられたらと思っていた。そこへ講演の依頼が舞い込んできた。さいたま市浦和駅近くの会場で3月10日に開催予定の「国際女性デー埼玉集会」だった。だれでも参加できる会だが、学校の先生がかなりの割合を占めるだろうといわれた。
そこで考えた。一変してしまった環境で子どもたちを育てていくために、ぼくらの暮らしぶりのみならず、教育も見直す必要がある。思えば、文部科学省と経済産業省が作成した副読本『わくわく原子力ランド』や『チャレンジ!原子力ワールド』が、つい去年まで普通に学校で使われていた。教育の果たすべき役割は何なのか、その問題と、桜の無言の訴えとをつなげて、さらに福島の地域社会において放射能汚染が何をもたらしているか、友人知人の話も交えて語ろうと、流れを決めた。そして演題をつける段になって、あれこれ悩み、『サクラ読本』を踏まえて「サイタ サイタ セシウム ガ サイタ」と考えた。引き裂かれていく地域の和という意味の「裂いた」も、「サイタ」に潜ませたつもりだった。しかし、カタカナばかりだと読みづらいかもと、表記を「さいたさいたセシウムがさいた」に直した。「3・11後の安心をどうつくり出すか」という副題もそえた。
講演の準備のために、チェルノブイリ原発事故による被曝の影響を調査してきたユーリ・I・バンダジェフスキーの論文『放射性セシウムが人体に与える医学的生物学的影響』(合同出版)を、日本語と英語と両方で読んで、2012年の「サクラ調査ネットワーク」の予定も調べた。そうしたら講演の4日前に、共同通信がセシウムに関する重大なニュースを報じた。「東電福島第1原発周辺の海で放射性セシウムの濃度の下がり方が遅いとの分析結果を、気象研究所の青山道夫主任研究官らが6日までにまとめた。事故で発生した高濃度の放射性物質を含む汚染水が、見えない部分から漏れ続けている可能性がある」という――つまりこの1年の間、東電は海を放射能のスープにして漏らし続けながら、何ら対処していないという。その現状が、海水のデータの分析で炙(あぶ)り出されたわけだ。
当然これはメディアでは大変な問題として扱われるだろうと思っていたが、翌7日の夜、帰宅して留守電を聞くと、自分の講演のタイトルが物議をかもしていることが、主催者からのメッセージで分かった。電話をかけて詳細を尋ねれば、どうやら参議院議員のK氏が「こういう言葉平気で公に使うセンスで授業やられちゃかなわん!」とTwitterで抗議するよう広く呼びかけたらしい。それがインターネットのニュースの記事になり、「国際女性デー埼玉集会」事務局の埼玉県教職員組合に、抗議と脅迫の電話もかかるようになったという。
そして講演前日の朝、また主催者から電話があり、「集会を中止にすることを決めた」と告げられた。
ぼくはネットの記事などを読んで反省した。『サクラ読本』というものが一般にあまり知られていないことも読み取った。
そもそも演題を考えるとき、気持ちは重かったのだ。放射能汚染の現実を直視すればするほど、「3・11後の安心をどうつくり出すか」という副題のかかえる困難さも、ずっしりとくる。しかし、少しでも建設的な方向を見出したい。その思いは、今も変わらない。
サクラ(ソメイヨシノ)
撮影/広瀬雅敏
小学国語読本 巻一(昭和8年刊)