第 8回 変わった言葉
池袋駅の西口から、行きつけの豆腐屋へ歩いていく途中に、居酒屋だのバーだの、ラブホテルだの風俗店のあれだのこれだのが軒を並べる歓楽街がある。ふだん、ぼくは自転車で動いているので駅を経由しないし、ラブホにも風俗店にも用がないので、街のその一角をあまり通らなかった。が、数年前から木曜日早朝のラジオ番組に出演するようになり、放送が終われば山手線に乗って池袋へ戻り、しぼりたての豆乳を買いに豆腐屋に寄る。そんな習慣がついた。
朝の陽ざしの中、歓楽街はどことなくバツが悪そうに静まっている。カラスたちだけ、ゴミ収集車がこないうちにと、眼光鋭く効率よくごちそうを狙っている。ぼくは決まって「こういえばよかったのに……あれをいうのを忘れちゃったな……」と、頭の中でラジオのひとり反省会をやりながら歩いていく。3月の地震と津波と原子力発電所のメルトダウン以降も、木曜日の朝、ラジオでしゃべり、あいかわらず歓楽街を歩いてきたが、その中の一軒の小料理屋の看板が、あるときふっと変わって見えた。
それは白い板に、決して繊細とはいえない手書きの黒い太字で「営業時間 夕方6時 朝2時 日曜日12時 エビス生 ハイボール ホッピー サワー」と書かれたもので、いちばん上に堂々と「一生無休」の四文字がつらなっている。ぼくはここ数年の間、幾度となくその店の前を通り、幾度となく看板を目にしていたはずだが、ずっと「年中無休」と当たり前に読んでいた。ゴールデンウィークの終わりの木曜日、いきなり「一生」が目に飛び込んできて、足が止まった。
もしや震災のあとに書き換えられたのかと、看板に顔を近づけて点検したが、「年中」が塗りつぶされた形跡はなく、すべて等しく埃っぽくくすんでいたのだ。いままで、こっちが読み間違えていたとしか考えられない。
しかし東北地方と関東地方が大量の放射能汚染を浴びせられた現在、「一生無休」は妙に迫ってくる表現となった。筋肉に潜り込むセシウム137は、半減期が30年余りで、2011年生まれの子どもたちが三十路にさしかかったころに、やっと半分に減る核分裂生成物。東京にも降ったセシウム137が、4分の1にまで減少するには、さらに30年がかかって子どもたちはちょうど還暦を迎える。もしそこまで生きられたならば。
骨をじりじりやっつけるストロンチウム90の半減期が29年ほどなので、今日も明日も大量に太平洋に漏れている汚染水に含まれたものが、ようやく半分に減ったころには、ぼくは73歳になっている。もしそこまで生きられるならば。セシウムもストロンチウムも、海ではいったん薄まるけれど、生き物の体内で生態濃縮が進み、恐ろしいレベルに達して食卓へのぼってくる。
ぼくらの体は、どうしても食べたり飲んだり、そして眠ったりもしなければ故障をきたす仕組みだ。看板で「無休」とうたっても、絶対に休む必要がある。ところが、相手の放射性物質たちは1秒たりとも休憩をとらず、24時間365日間、閏年(うるうどし)には366日間ばっちりフルに活動して、生物の細胞をじりじりむしばんでいく。プランクトンの一生、イワシの一生、マグロの一生、米の一生、小麦の一生、牧草の一生、牛の一生、人間の一生分も無休に、ずっと頑張るのが放射能汚染なのだ。プルトニウム239にいたっては、半減期が2万4千年ばかり。メルトダウンのみならずメルトスルーしてメルトアウトも疑われる福島第一原発の死の灰は、食べ物と飲み物を通じて日々、みんなの体内で「一生無休」の働きをつづけることになるのだ。
3月11日を境に、ぼくの見方ががらりと変わった看板は、もうひとつある。中央省庁再編で2001年に「原子力安全・保安院」ができたとき、ぼくは霞ヶ関までその看板を見に出かけたわけではないが、新聞で知って、実にくどい名称だなと思った。「安全」と「保安」を無意味に重ねて、まるで「馬の馬糞」みたいな「いにしえの昔の武士のさむらい」みたいな重複感があり、それをごまかそうと「・」をぎこちなく挟みこませているではないか。やはり役人臭い、センスのないネーミングとしてバカにして、でも同時に、一度目にすれば忘れられない、どこかひっかかる表現にはなっていることも、認めざるを得なかった。
福島第一原発の一号炉も二号炉も三号炉もメルトダウンをきたし、毎日「原子力安全・保安院」の記者会見が開かれ、「メルトダウン」という言葉が禁じられ、嘘八百が並べられ、情報の隠蔽と責任逃れが大々的に繰り広げられていた3月末日、ぼくは朝刊を広げて、ピンときた。「原子力安全・保安院」は、本当は見事にその組織の本質を捉えた名称だったのだと。
少しほぐしてみれば、「原子力村の安全神話を保ち、国民を安心させるための院」という意味だ。それを簡潔に、漢字だけで表記している。
しかも、あの座りの悪いナカグロの「・」も不安定的な要素を加えることで、見る者を釣るフックの役割を果たす。その仕掛けは、「原子力安全・保安院」より4年も早く結成された「モーニング娘。」の尻尾の「。」ととてもよく似ている。一見よけいなマークのようで、実際はそこがネーミングのミソなのだ。
この列島にばらまかれた放射性物質を、閉じ込めて安全を保つことは、もはや無理だ。太平洋に垂れ流されている汚染水のダメージも、ぼくらが全員、一生働いて環境を保全しようとしても、償うことはできないだろう。ただ、「原子力安全・保安院」の無責任を問い、解体して二度と原発人災が引き起こされない社会を作りあげることは、じゅうぶん可能だ。
それを成し遂げるまで、ぼくは現実に即して「原子力安全・欺瞞院」と呼びつづけよう。
「四季」という店名だが、「春夏秋冬」ではなく、
よく見れば「春夏 冬」になっている。
これはアキがこないようにと願った表記か?
霞ヶ関 経済産業省 別館前にて