第108回 隅田川は暴れ川だった

 「春のうららの隅田川(すみだがわ)♪」の歌が似合う季節になった。隅田川は東京を代表する河川であり、隅田川沿いの堤(つつみ)は江戸時代から続く桜の名所で、今年も多くの花見客がその風情を楽しみに訪れることであろう。
 そんな隅田川が、江戸時代以前には暴(あば)れ川で氾濫(はんらん)を繰り返していたことは案外知られていない。
 その昔、平安時代には、入間川(いるまがわ)・利根川(とねがわ)・元荒川(もとあらかわ)・渡良瀬川(わたらせがわ)・鬼怒川(きぬがわ)などが合流して江戸湾(東京湾)に注いで大河となっていた。
 流浪(るろう)し東下(あずまくだ)りをする在原業平(ありわらのなりひら)は、武蔵国(むさしのくに)の高台に立ち、隅田川を一望すると、大河というよりは限りなく遠く下総国(しもうさのくに)を望む泥湿地帯の荒涼とした光景に身をすくめた。渡し守(もり)に誘われて舟に乗ろうとすると鳥が飛んでおり、渡し守に鳥の名を訊(き)くと都鳥(みやこどり)だと言う。都と聞いて故郷に残した妻を思い出し詠(うた)う。

名にし負はばいざ言問(ことと)はむ都鳥わが思ふ人ありやなしやと (『古今集』)

 今の隅田川に架(か)かる言問橋(ことといばし)で詠(よ)んだとされるのは怪(あや)しいようだが、とにかく隅田川は一筋の大河でなく広大な浅瀬川で、人を寄せつけず、ひとたび雨になれば濁流となっていたのである。
 徳川家康が江戸へはじめてやってきたときも、業平の頃とさほど変わる光景ではなかった。家康は、この川を制しない限り江戸の発展はないと考えた。豊臣秀吉の言を受け入れて江戸への赴任を家康に勧めた伊奈備前守(びぜんのかみ)忠次(ただつぐ)も考えはおなじであったろう。そこで家康は四男松平忠吉(ただよし)と忠次に、利根川・渡良瀬川・鬼怒川などを現在のように千葉県の銚子沖に抜く瀬替(せが)えの大工事に着手するよう命じ、隅田川は入間川を主流にする計画を立てた。
 そして着手からおよそ半世紀たって、利根川等の瀬替えは承応3年(1654)に完了し、隅田川はほぼ現代の流域となる。
 この大工事の着手と時を同じくして、家康は江戸城の周囲をはじめ江戸の街を造築する大事業も始めた。全国の大名に禄高(ろくだか)千石(せんごく)あたりに一人の人夫を拠出(きょしゅつ)させ(千石夫。慶長8年〈1603〉)、そうして江戸に集められた2万人を超す若い屈強な人夫(にんぷ)たちが江戸の街を造ることになった。彼らの旺盛な食欲をまかなうための食料を運ぶために街道や海路の整備が進み出し、まさに江戸時代の日本列島改造が始まったと言っても過言ではない。また余談ではあるが、若い労働者や単身赴任の陪臣(ばいしん。各藩の家臣)の性欲を満たすために、元和3年(1617)に遊廓・吉原もできた。
 江戸の工事がほぼ完成した頃、明暦(めいれき)3年(1657)、江戸の大火(振袖火事)が発生した。本郷丸山の妙法寺(みょうほうじ)で行われた、若くして亡くなった娘たちの振袖を焼いて供養する仏事から飛び火し、江戸が全焼してしまう。まだ利根川等の瀬替えの完了する前のことで、隅田川に架(か)かる橋は上流の千住大橋ばかりだったため、人々は隅田川の向こうに逃げられず川での溺死者も多く、10万人の命が奪われたという。
 これを奇禍(きか)として、再び江戸の街は都市計画のもとに改造され、両国橋も架けられた。江戸幕府開闢(かいびゃく)以来半世紀余が過ぎて、現在の東京の原型となる江戸ができあがったのである。
 こうして江戸の歴史を振り返ると、江戸幕府が成立してまもなくの頃は、まさに江戸建設の大工事が繰り広げられている最中であった。大勢は決していたとはいえ大坂冬の陣、夏の陣は、言わば、片手に武器を持ち、片手にシャベルを持つという二刀流の時代であった。
 歴史に「もしも」はないと言うが、真田幸村(さなだゆきむら)が家康の首級を取ることがあったなら、江戸建設は頓挫(とんざ)し、隅田川も元の暴れ川のままで「春のうららの隅田川♪」とはならず、建設途上の江戸は廃墟と化し、日本の地図はまったく違ったものになっていただろう。

隅田川の堤を花を愛でながら歩く女性と付き人の一行。隅田川を江戸市中から眺めた景色で、新大橋のもとを舟が上り下りしている。右手の向こうには深川の万年橋が見える。葛飾北斎画の狂歌絵本『絵本隅田川両岸一覧』(文化元年〈1804〉頃刊か)より。

在原業平…825~880。平安初期の歌人。六歌仙、三十六歌仙のひとり。『伊勢物語』の主人公とされる。情熱的な和歌が多く、『古今集』から『新古今集』までの勅撰集に収められる。

真田幸村…1567~1615。安土桃山時代の武将。信濃国(しなののくに)上田城主・真田昌幸(まさゆき)の二男。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、父とともに徳川秀忠の大軍を阻止。大坂冬の陣では、豊臣方の武将として活躍し、夏の陣で戦死。

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