第82回 節分と豆男
2月3日は節分であった。節分というのは本来、立春・立夏・立秋・立冬といった季節の移り変わりの節目の前日に行う行事だったが、今は、節分というと2月3日のことだけを言うようになった。
近頃は節分の豆まきよりも恵方巻(えほうま)きを食べて厄払いしようという人が増えたようで、豆まきも殻付きのピーナツにして、あとで年の数だけ食べた人も多かったろう。ピーナツ1個で1億円、ピーナツ3つで3億円というと、ニヤリとする人も少なくなった。
豆といえば小粒なことも形容する語になるが、人間が豆のように小粒な姿に変身して(あるいは、人の目に見えない透明人間になって)、人間の心根や、その人間の真意・考えをたずねてみたいものだという発想と願いは早くからあったようだ。
江戸時代の桃太郎話では、桃太郎が鬼ヶ島から凱旋(がいせん)したときに持ち帰った財宝のなかには、隠れ蓑(みの)と笠(これを着ると、その人間は透明人間になる)があったとされる。
人の目に見えないような豆粒に変身し、人間や動物にくっついてあちこちを巡ったり、体のなかに入って人間や動物の魂と入れ替わり、または隠れ蓑と笠を着て透明人間になり、そうやって人の心理を探ろうというのは、どうも人間の持つ永遠の願望なのかも知れない。
豆粒のような小さな人間に変身することができる豆右衛門(まめえもん)が、小説に初めて登場したのは、江島其磧(えじまきせき)作の浮世草子(うきよぞうし)『魂胆色遊懐男(こんたんいろあそびふところおとこ)』(正徳2年〈1712〉刊)だった。
これ以来、いわゆる「豆男(まめおとこ)物」と称される同工異曲の作品が何作か出てきて、作家の幸田露伴(こうだろはん)などは、江戸時代の最後の豆男物の小説は滑稽本(こっけいぼん)の『夢輔譚(ゆめすけものがたり)』(一筆庵主人作・弘化元年〈1844〉初編刊)だと言っている。一筆庵主人とは渓斎英泉(けいさいえいせん)の筆名である。『夢輔譚』は、浮世夢助という男が福禄寿(ふくろくじゅ)に願って魂が入れ替わる方法を伝授してもらい、動物の魂と入れ替わるというものである。
これは、山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)『唯心鬼打豆(ただこころおにうちまめ)』(寛政4年〈1792〉刊)・『七色合点豆(なないろがてんまめ)』(文化元年〈1804〉刊)などや浮世草子の豆男物から趣向をいただいた作品である。
『唯心鬼打豆』は、駿河(するが)の国の男が江戸へやってきて、浅草観音から動物の魂と入替われることができる豆を授かり、鰻(うなぎ)や狆(ちん)や猫や鸚鵡(おうむ)などの体内へ入りその魂と入れ替わりそれぞれの気持ちを知り、最後に父親の魂と入れ替わって親の恩を悟るという教訓性に満ちた作柄で、この趣向が読者に大いに受けた。『七色合点豆』も、豆介という男が浅草観音から豆を授かり、同様に動物たちの魂と入れ替わる話である。
ところで、節分でまかれた豆を鬼が持って現れ、これを一粒食べたら最愛の女性(あるいは男性)の体内に入り魂を入れ替えられて、その人の心の働きが観察できますよ、ということになったら、あなたなら果たしてどうするだろうか。
たぶん意見は、食べて入ってみて、自分のことをどれほど愛しているか探ってみたいという派と、そんな野暮な穿鑿(せんさく)をすることは、愛する相手の女性(男性)に対する冒瀆(ぼうとく)だから止めておこうという派と二分されるだろう。さて、あなたなら、どうする?
豆男となった作者・京伝が、無名無次郎の口から飛び出たところ。小さな体になって無次郎の体内をめぐり、堅物の彼が通人になるまでの一部始終を見てきた京伝は、それをこの黄表紙に書くことにした。山東京伝作・画『人間一生胸算用』(寛政3年〈1791〉刊)より。
江島其碩…1666~1735。江戸中期の浮世草子作者。京都生まれ。西鶴の作風をまねた役者評判記『役者口三味線』が好評を得て以降、庶民の生活を写実的に描いた浮世草子を多く書いた。書肆(しょし)八文字屋自笑(じしょう)のゴーストライターとして活動したが、対立して書肆江島屋を開業。和解後は連名で八文字屋から出した。作品に、『傾城色三味線』『世間子息気質』など。
渓斎英泉…1790~1848。池田英泉。江戸後期の浮世絵師。はじめ狩野派の画法を学んだが、のちに菊川英山に師事して浮世絵師となり、官能的な美人画を描いた。无名(むめい)翁の名で随筆も書いた。