第72回 三度の飯と団十郎

 秋風が吹き出すと食欲の秋と行楽の秋になる。行楽の季節は、観劇に出掛ける季節でもあろう。江戸の観劇といえば歌舞伎であり、江戸歌舞伎といえば代々の市川団十郎が人気を支えていたと言えるだろう。
 今回は、五代目団十郎作の有名な狂歌から始めよう。これは、天明6年(1786)刊行の狂歌集『吾妻曲狂歌文庫(あずまぶりきょくきょうかぶんこ)』に載っているものである。五代目は「花道つらね」の狂名を持ち狂歌師としても活躍していた。

    楽しみは春の桜に秋の月夫婦仲良く三度食う飯

 江戸時代の食事は日に二度というのが、1700年代も半ばすぎ頃までの商家などでは普通だったが、それ以降は三度の食事が定着してくる。江戸庶民たちが日に三度食膳を囲み一家団欒(だんらん)を楽しんだことを、この狂歌は伝えている。
 五代目は家庭的には必ずしも恵まれた環境だったとは言えなかったようだが、それだけに、家庭人としての夫婦仲を詠(よ)んだこの狂歌は、ごく平凡な人びとの共感をよぶ一首となっている。
 烏亭焉馬(うていえんば)はこの五代目の大ファンであり、贔屓(ひいき)連の「三升(みます)連」を結成して後援していた。五代目が活躍したのは江戸時代も中期、田沼意次(おきつぐ)の時代で、世は挙げて消費生活に浮かれ江戸文化が花開いた。川柳や狂歌といった文運も盛んで、歌舞伎役者たちも狂歌を詠んだ。
 「楽しみは…」の狂歌は大田南畝(おおたなんぽ)の代作説もあるが、同じ歌舞伎役者の初代坂東善次(ばんどうぜんじ)が、狂歌集『花見曾我風雅宴(はなみそがふうがのさかもり)』(寛政7年〈1795〉刊)の序文で、五代目の狂歌と紹介しているので、素直に団十郎の狂歌としてもよいようである。
 五代目団十郎は、養子の四代目海老蔵(えびぞう)が六代目団十郎を襲名すると、寛政8年の顔見世興行でいったん向島牛島の親玉白猿(はくえん)として隠居する。隠居しても庶民の人気は衰えず、2年後には再び舞台に立ち、また隠居する。ところが、寛政11年に六代目が夭逝(ようせい)したため、孫が七代目団十郎を襲名すると、またまた舞台に復帰している。
 ところで、上方(かみがた)で観劇といえば人形浄瑠璃(文楽)である。しかし、江戸では人形浄瑠璃は盛んではなかった。上方で評判の浄瑠璃が歌舞伎化されて上演されることも多かった。
 今でも地方では伝統的な素人歌舞伎が行われているが、江戸時代は人形浄瑠璃の方が主で、その舞台は全国に何千と分布している。ただし、集会の禁止が厳しかった時代だけに、当局の目を誤魔化すため、民家を人形浄瑠璃の舞台に早替りさせて興行していた。
 江戸で歌舞伎のほうが盛んだったという理由には諸説があって定まらない。江戸の人口の4割前後を占めていた武士階級は堅苦しい生活を余儀なくされていて、彼らは人形を使った筋書通りにキッチリとやる舞台よりも、役者のアドリブなどに人間味を見て、江戸生まれの武士や江戸っ子は喜んだのではないか。そして、地方出身の勤番武士には、なんと言ってもアドリブと決めゼリフたっぷりの団十郎の豪華な舞台は楽しかったことだろう。

顔見世歌舞伎の「暫(しばらく)」の衣装をつけた五代目市川団十郎と団十郎作の狂歌。「おほけなく柿の素袍(すおう)におほふかなわがたつ芝居みょうが(冥加)あらせ給へや」と芝居の大当たりを祈っている。『古今狂歌袋』(天明7年〈1787〉刊)より。

五代目団十郎…1741~1806。江戸後期の歌舞伎俳優。四代目団十郎の子。天明・寛政期の名優。

烏亭焉馬…1743~1822。江戸後期の戯作者。本所の大工の棟梁(とうりょう)。落語(おとしばなし)を自作自演して人気を博し、落語中興の祖と呼ばれる。江戸歌舞伎の年譜『歌舞妓年代記』を著している。

田沼意次…1719~1788。江戸中期の政治家。明和4年(1767)に第10代将軍家治(いえはる)の側用人(そばようにん)、安永元年(1772)に老中となる。積極的な膨張経済政策をすすめ、江戸のバブル期ともいえる「田沼時代」を築いた。

大田南畝…1749~1823。江戸後期の戯作者。別号に蜀山人(しょくさんじん)、四方赤良(よものあから)など。下級武士として江戸幕府に仕えた。天明狂歌壇を代表する狂歌師で、ほかに狂詩、洒落本(しゃれぼん)、黄表紙(きびょうし)、咄本(はなしぼん)なども著す。

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