第70回 江戸っ子とそうめん
真夏に涼感を呼ぶ食べ物は、こんにちでは沢山ある。麺類では「冷麺」、「冷やし中華」などと呼ばれるものが代表で、「冷やしうどん」といった看板も珍しくなくなった。
江戸時代の「冷麺」の代表格なのが「そうめん」である。もともと中国の食文化が発祥で、「索麺」(中国語でサクメンと発音)と呼ばれていた。中国から渡来したそのままの作り方が日本で広まったかどうかは微妙で、ラーメンが日本流に作られるようになったように、徐々に日本流に改良されてきて今の「そうめん」になったものと考えてよかろう。
小麦粉に水と塩を混ぜてこねあげ、それに植物油のゴマ油などを入れたり塗ったりして細い紐状にしたものを天日干しにし、適当な長さに切った麺の一種が「そうめん」である。
おそらく鎌倉・室町時代に中国へ渡った僧侶たちが「索麺」とその製法を持ち帰ったと思われるが、伝来したときはサクメンと呼んでいたようである。それが日本語流に訛(なま)って「そうめん」となった。『日葡辞書』にはSomen、女性語としてZoro(ゾロ)とあるから、江戸時代初期には「そうめん」という呼び方が一般的になり、宮中に仕える女御(にょうご)や女性たちは「ぞろ」と呼んでいたと思われる。
この「そうめん」が夏の食材になったのは、そんなに古いことではなかっただろう。「そうめん」を醤油や味噌汁で煮た「にゅうめん(煮麺・入麺)」が、すでに室町末期にはあったようだからで、17世紀末の井原西鶴(いはらさいかく)の浮世草子(うきよぞうし)には冬の食べ物として「煮麺」がしばしば出てくる。
それが「そうめん」は夏の風物詩というか、真夏の食欲減退を克服する食べ物として定着したのは、どうも江戸の半ば頃だったようである。川柳に、
索麺を配るを見れば御用也
(誹風柳多留12編〈安永6年(1777)刊〉)
とあり、「そうめん」を配って歩く人の様子をよく見ると、盂蘭盆(うらぼん。陰暦7月13日~15日、今年は8月8日~10日に相当)の贈答品であったというわけである。
川柳では三輪索麺(奈良県桜井市三輪地方産の索麺)がよく詠(よ)まれているから、江戸っ子の町人ばかりでなく、武士たちの贈答品としても三輪「そうめん」はブランド品になっていたのかもしれない。江戸っ子の好みの麺類の仲間を擬人化した恋川春町(こいかわはるまち)の黄表紙(きびょうし)『化物大江山(ばけものおおえやま)』(安永5年〈1776〉刊)では、「そうめん」は、位の高い大納言に擬せられているほどである。
その安永年間(1772~1781)頃に流行った童謡に、「どうどう巡(めぐ)れ、どう巡れ、粟の餅もいやいや、米の餅もいやいや、蕎麦切り索麺食いたいな」というのがある。この時期から江戸っ子は「蕎麦っ食い」となり、屋台店も商売繁盛。冬はズルズルと蕎麦をたぐって暖をとり、夏は冷たい「そうめん」を食うに限ると、江戸っ子の自慢が一つ増えたのである。
そうめんを食べる亭主(右)とそうめんを冷やして用意している女房(左)。二人とも額から汗をダラダラ流している。6月に大寒となり、寒いから「煮麺」にするところを、「冷(ひや)煮麺」を食べている。温かくして食べるのが「煮麺」、冷たくして食べるのが「そうめん」なのだが、未来は真夏に大寒になるから、冷たい「煮麺」を食べるようになると予想した諧謔(かいぎゃく)。食べると汗をかき、その汗は、つららになっている。江戸の未来はどうなるか、未来の風俗などを滑稽に予想し、うがってみせた、恋川春町作・画の黄表紙『無題記』(『無益委記』とも)より(天明元年〈1781〉刊)。
井原西鶴…1642~93。江戸前期の浮世草子作者・俳人。『好色一代男』『好色五人女』『日本永代蔵』『世間胸算用』などの名作を数多く残した。
恋川春町…17744~1789。江戸後期の戯作者・狂歌師。本名、倉橋格。狂名、酒上不埒(さけのうえのふらち)。自画作『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』で、黄表紙の作風を確立した。
『化物大江山』…蕎麦の流行を大江山の鬼退治になぞらえて、「そば切」の一党が「うどん」の一党を退治するという話に仕立てたもの。さまざまな薬味や麺類が登場して戦いを繰り広げる。