第18回 梅雨と番傘

 梅雨の間は傘を手放せない。うっかり傘を持たずに出て急に雨に降られると、コンビニエンスストアに飛び込み「コンビニ傘」を買う羽目になる。今回は、江戸時代の傘の話である。
 徳川家康が江戸に入る150年ほど前、室町時代の長禄元年〈1457〉、江戸城を築いたのは太田道灌(どうかん)であったが、道灌にはこんな有名な逸話(エピソード)がある。
 ある日、道灌が江戸近郊で狩りをしていると、俄雨(にわかあめ)にあう。農家に立ち寄り雨具の蓑(みの)を借りようとすると、出てきた少女が山吹の枝を差しだすが、道灌にはその意味がわからず戸惑う。あとで家臣から、その昔、兼明親王(かねあきらしんのう)が蓑笠を借りに来た人に、「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」(『後拾遺集』)と和歌を詠(よ)んで婉曲(えんきょく)に断った故事を踏まえて、少女は山吹の花を差しだしたのだと教えられる。それから道灌は、歌道に疎(うと)いことを恥じ、発奮して歌道に励んだという。
 これは、戦国時代から江戸初期までの武士の逸話を集めた『常山紀談(じょうざんきだん)』に載っている。落語「道灌」はこの逸話をもとにした噺(はなし)で、落語家が入門時に習うという。
 かつて関東地方の片田舎町だった江戸では、雨具といえば合羽(かっぱ)や蓑笠が主だった。竹の細い骨に紙を貼って油をひいて柄(え)をつけた「唐傘(からかさ)」を庶民が愛用するようになるのは、江戸時代も半ばすぎのようである。唐傘は、雨や雪の日ばかりでなく、夏の炎天下にも使われた。
 唐傘の柄の上に付けられ、開閉に使われるしかけの「轆轤(ろくろ)」を作る技術は難しいものだった。この細工技法は、法隆寺の百万塔(ひゃくまんとう)にも使われている古来の技術である。それは大坂を中心にした上方(かみがた)では普及したが、江戸ではなかなか定着しなかったようで、江戸では唐傘は貴重品であった。
 享保年間(1716~36)、唐傘はまだ大坂下りのものが主流であり、江戸では粗悪品が出回っていた。これに困った青山の唐傘職人たちが、組合結成の願いを出している(これがのちに青山の下級武士たちの傘張り内職となるのである。武士の内職といえば傘張りというイメージは、ここから来ている)。また、町奉行所内では唐傘を差しても構わなかったが、町触れでは唐傘を「ぜいたく品」だと規制する傾向にあった。
 それでも、ぜいたく品の普及する田沼時代を経て、1800年頃から幕末近くなると、唐傘は江戸中に滲透し、江戸の庶民の雨具となっていく。
 唐傘は、「番傘(ばんがさ)」とも呼ばれていた。これは、商店などの広告を兼ねて、店の名前や屋号、番号を記したことからで、客に貸し出された番傘は、雨の日には動く広告塔にもなっていた。図版のように、橋の上などでは、番傘の広告の花が開くような風景が見られたのである。

新柳橋(しんやなぎばし)の俄雨。急いで橋をわたる人々がさす番傘には、店の屋号や傘の番号が書いてある。葛飾北斎画『絵本隅田川両岸一覧』(享和元年〈1801〉刊か)より。

太田道灌…1432~86。室町中期の武将・歌人。扇ガ谷(おうぎがやつ)上杉定正(さだまさ)の執事。江戸城、河越城などを築いて関東一帯に勢力を拡大したが、定正により暗殺された。歌集に『花月百首』がある。

兼明親王…914~87。平安中期の皇族。醍醐(だいご)天皇の皇子。詩文や書にすぐれた。

『常山紀談』…江戸中期の儒者・湯浅常山(1708~81)が文化・文政頃(1804~30)に刊行した説話集。

百万塔…奈良時代、称徳(しょうとく)天皇が造らせて畿内の10寺に納めた百万基の木造の小型の塔。轆轤びきで造り、中の空洞に陀羅尼経(だらにきょう)を納めた。法隆寺に約4万基が現存。この陀羅尼経は日本最古の木版印刷物といわれる。

田沼時代…十代将軍家治(いえはる)の側用人・老中をつとめた田沼意次(おきつぐ)が実権をにぎった明和4年(1767)~天明6年(1786)。江戸のバブル期ともいうべき時代。

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