第 1回 オトコの道、キクイモの旅路

 英語のことわざや言い伝えに出てくるmanは、多くの場合、「人間」を意味している。代表者として男を立て、
女性も含めてみんなmanと呼ぶわけだ。男尊女卑社会の言語的遺物で、ずるい表現ではあるが、
ただ、その単音節の短さがひどく魅力的。たとえば、代わりにhumankindかhuman beingsかpeopleでも使おうとすると、
せっかくギュッとしまっていたことわざが間延びして、
理屈っぽくなってしまう。そのため、「人はパンのみにて生くるものにあらず」は、今でもやはりMan cannot live by bread alone.のままだ。

 Man proposes, God disposes.もしかり。この濃度の高い四ワード熟語を、ほぐして分かりやすく訳せば、
「人間はあれこれ企てるが、実現するかどうかは天が決めること」といった感じか。
また、古代ギリシアの哲学者プロタゴラスが唱えた「人間尺度説」も、英語バージョンではMan is the measure of all things.――まぎれなく「マンは万物の尺度である」と決まっている。

 ところが、中にはmanと称して、男のみをさすことわざの類もある。
見分けるには、男女の違いをきちっと検証するという手はあるけれど、中身以前に、不定冠詞がひとつのヒントになる。
もしmanの頭にaがついているならば、それはたぶん男性限定のはず。代表的な用例として、野郎どもの
単純さをからかったThe way to a man’s heart is through his stomach.という言葉が思い浮かぶ。
「男の心に通ずる道は胃袋経由だ」と、つまり「うまい料理を食わせておきさえすれば男ってイチコロさ」といったところか。

 そんなシンプルなロードマップが、自分自身の心理に果たして当てはまるかどうか、今までは思ってもみなかった。
しかし、あらためて考えれば、どうもぼくのハートには迂回路ができているような気がする。
胃袋とばっちりつながって行き来が多いのは、恋心よりも、むしろ言語習得をつかさどる脳味噌のほうではないか。
体内で食欲と言語欲は常に連動して、新しい食べ物を味見しながら、新しい表現を飲み込み、日本語を身につけるプロセスは、日本食を消化するそれでもあったのだ。

 おいしいご飯を頬張りつつ「米の飯とお天道様はどこへ行ってもついて回る」
を覚え、豆腐を箸でつかんでは「豆腐に鎹」にうなずき、味噌汁をすすって「味噌も糞も一緒」にしないことを誓い、
「味噌をつける」ことも避けたいと願った。来日したてのころと比べ、今は当然、新出語に巡り会うことが少なくなり、
未知の食べ物との遭遇も回数が減った。なにしろ、ぼくはなんだかんだで在日足かけ19年になる。
でも、日本食を知り尽くしたわけではまったくないし、日本語の消化もまだまだ途中だ。

 そのことが身にしみたのは、忘れもしない2009年2月14日。別にバレンタインとは関係なく、
毎月のラジオの仕事で青森へ出かけ、青森駅に近い古川という地区をうろついていた。
いつも活気あふれる八百屋の「ヤオケン」に、ちょっと立ち寄ったら、店先についぞ見たことのない野菜が並んでいた。
なにか根っこというか球根というか、ゴルフボールよりひと回り大きいゴツゴツしたやつで、
皮は赤褐色で……なるほどみんな糠漬けになっているのか。おばさんに尋ねると、「キクイモだべな」と教わり、
「キクイモって?」と聞き返せば、にわか講義が始まった。

 キクイモは茎が長く伸びて葉が生い茂り、秋になると小ぶりの黄色い花をいっぱい咲かせ、
それを見れば菊の仲間だと分かる。地下には丸いショウガにも似た塊茎が多く育ち、
それを漬け物にするとおいしい。栽培はできるけれど、店先にあるのはおそらく、自生しているキクイモを山から掘り起こしてきたものだろう。

 試食して、その繊維たっぷりの愉快な歯ごたえと、ほのかにワイルドな香りに惚れ、
買って帰った。東京のわが家で輪切りにしてカリカリ食べて、また興味をそそられ、百科事典を引いてみると、
「北米原産で、日本には江戸時代末に渡来した」とあるではないか! さて、ぼくと同じこの北米出身者の英語名は? 
百科辞典にラテン語の学名Helianthus tuberosusだけが載っていて、手もとの和英辞典には出ていなかったが、
植物図鑑ではJerusalem artichokeの英語も併記していた。

「アーティチョーク」といったらキク科の多年草で、欧米人はむかしから、
そのつぼみを茹でたりオイル漬けにしたりして食べる。うちの父親の好物だったので、
子どものころからぼくもしょっちゅう口にしていたが、「エルサレム・アーティチョーク」のほうは、
まるで記憶にない。そこで、母親から託されたアメリカ定番のクックブック『Joy of Cooking』を、久々に本棚から出し、
索引を見たらあった! フライパンで焼くgolden pan-fried Jerusalem artichokesと、
オーブンで焼くroasted Jerusalem artichokesと、ふたつのレシピを堂々と掲載。米国のれっきとした郷土料理なのに、
米国人のぼくは知らなかったのだ。青森の「ヤオケン」で出くわすまでは。

 それにしても、よく考えれば北米原産のはずの植物に、パレスチナ地方の古都、聖地Jerusalemの名がくっついているのは、
いったいなぜなんだろうか? 英語の古いエンサイクロペディアには
Jerusalem artichokeのふるった語源説まで出ていた。もともとヨーロッパにはなかった植物だが、移民が北米大陸へ渡り、
キクイモのうまさに目覚め、どうやら最初にイタリア語のネーミングが決まったらしい。
それも「ヒマワリ」をさすgirasoleを使って単純に名づけ、発音は「ジラソレ」といっていた。
かの有名なナポリ民謡「オー・ソレ・ミオ」と、「太陽」の「ソレ」は重なり、頭の「ジラ」が「回る」ということだ。

 ただし英国人や英国系のアメリカ人にはgirasoleの意味は通じず、キクイモのことを
「ジラソレ」と呼んでいるうちに、その「ジラ」がjeruにだんだんと近づき、
「ソレ」もじりじりとsalemに変身、いつの間にかこんな適当なランゲージ・ミラクルが起きたとさ。

 それに比べれば、日本語名はいたって真面目だ。花の「菊」と根の「芋」をバランスよく組み合わせて、
まったく隙がないように見える。でも、青森の八百屋のおばさんが語れば、少々濁って「キグイモ」になり、じわっと親しみがわく。

 「エルサレム」はもともとヘブライ語で、その意味が「平和の礎」らしい。たびたび皮肉をこめて紹介される語源説だ。
けれど、国家や宗教や人種の壁などおかまいなしに、世界の土と言葉を自由に巡ってきた
Jerusalem artichokeは、平和を築くために必要な基本姿勢を示してくれているのじゃないか。キクイモの糠漬けをかじれば、かじるほどそう思えてくる。

キクイモの地下茎

キクイモの地下茎

キクイモの花

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「菊芋の粕漬け」の商品

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菊芋の粕漬け

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Joy of Cooking

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