第88回 江戸のベストセラーと付録
ピッカピッカの小学一年生が、重たそうに背負っていたランドセルも、しだいに板についてくる季節となった。
新入生や4月の新学期向けの特別号の雑誌は、今でも分厚い付録付きで出されている。ファッションや趣味の雑誌にも工夫をこらした付録のあるものもあり、書店の店先を賑(にぎ)わしている。
現代では、雑誌は日本全国津々浦々まで遅れることなく配送され、週刊誌などは全国同時発売が当たり前になっている。しかし、トラック便などなかった江戸時代は、全国で本を同時発売するということは無理であった。
江戸時代半ばすぎ、大人のコミックとして人気沸騰した「黄表紙(きびょうし) 」は、正月の刊行予定であったが、江戸では早いときには11月から刊行されていて、版元は暮れにかけて全国の本屋へ送る田舎向けの本の発送に大忙しであった。
江戸では、正月向けの本は12月に読者の手に届き、江戸から遠い地方での売り出しは正月以降だった。今の月刊誌が、4月号としているのにひと月前の3月に売られているのはそもそも、江戸時代の刊行物が地方によってタイムラグがあった、その名残でもある。
そうして、地方でひと月後に見られる刊行物を「月おくれ」と称していた。江戸の貸本屋では、刊行後間もなく届いた新本の見料(けんりょう。レンタル料)は高かった。それが、ひと月遅れで借りると、「月おくれ」ということで見料は安くなった。
そんなことから俗語(スラング)で、話題にすぐに反応できないような人を「月おくれ」と言った。反応が鈍い人を「蛍光灯」と言ったのに似ているが、最近は蛍光灯もLEDになり、「月おくれ」と同様、鈍い人をいう「蛍光灯」も死語になる日は近いことだろう。
江戸時代は運送手段が限られていたから、出版版元が多かった江戸や京都・大坂と、他の地方とでは本の売出しのタイムラグは埋めようがなかった。それでも幕末になると、「田舎送り」という本輸送の専門業者も現れたらしく、版元は貸本屋向けの本の輸送を優先させた。貸本屋向けの本は、輸送や読書の際の傷みに耐えられるように特装本となっており、何倍かの高値で売れるからであった。
日本で最大の貸本屋大惣(だいそう。大野屋惣八)は、2万部を超える貸本を擁(よう)していた名古屋の貸本屋で、坪内逍遥(つぼうちしょうよう)も大惣の恩恵に浴したと語っている。現在残されている大惣旧蔵の黄表紙などは、高いレンタル料に見合った立派な装幀本である。
貸本屋には割高で配本できたとしても、全国の貸本屋の数はきまっていて、需要に限りがあった。ベストセラーになるには、一般の読者の関心(歓心)を買って発行部数を伸ばさなければならない。江戸のベストセラーといえば、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』だが、この十返舎一九先生はなかなかの智恵者で、読者サービスもおさおさ抜かりなかった。
彼は、『東海道中膝栗毛』の続編である『続膝栗毛』の最終第12編刊行の前々年の文政3年(1820)正月刊行の第11編を袋に入れて売り出した。その袋には、本と一緒に歌川国貞(うたがわくにさだ)が描いた江戸吉原の遊女たちのブロマイドならぬ一枚絵を付録に付けたのである(図版参照)。
その昔、小学校の学年雑誌の付録を楽しんだ記憶がある方も多いことだろうが、この「付録」という企画は、十返舎一九が考えたものを嚆矢(こうし)とする。
十返舎一九『続膝栗毛』11編(文政3年〈1820〉刊)の付録の国貞画の一枚絵。吉原の遊女が色刷りで描かれており、「いろいろに名は変(か)はれども借(か)りてくる太夫(たゆう)はおなじ盃(さかずき)の所作」と書かれている。
黄表紙…江戸後期、安永4年(1775)から文化3年(1806)頃にかけて多数刊行された草双紙(くさぞうし)。洒落(しゃれ)、滑稽、風刺を織り交ぜた大人向きの絵入り小説。1冊5丁(10ページ)から成り、2、3冊で一部とした。代表作者には、恋川春町(こいかわはるまち)、山東京伝(さんとうきょうでん)。
十返舎一九…1765~1822。江戸後期の戯作者。東海道を旅する弥次さん喜多さんがナンセンスな笑いをくり広げる滑稽本(こっけいぼん)『東海道中膝栗毛』は、初編(享和2年〈1802〉)から八編(文化6年〈1809〉)まで刊行され、続編も次々出されて文政5年(1822)まで続いた。一九は、黄表紙、洒落本(しゃれぼん)、読本(よみほん)、咄本(はなしぼん)など、さまざまなジャンルに多くの作品を残している。
歌川国貞…1786~1864。江戸後期の浮世絵師。役者似顔絵の錦絵と草双紙の挿絵を得意とした。三世豊国(とよくに)を襲名。