第84回 らくだの見世物
暖かくなったかと思えば冷え込むこの時期、冬物をしまうかどうか迷うところである。昨今では横文字の暖か下着も流行しているが、昔ながらのらくだ色の「らくだのももひき」がやっぱりいい。「キャメルのインナー」などと言えばきっとお洒落なのだろう。
日本人は舶来ものが大好きである。江戸時代には、ラクダ、ゾウ、ロバ、ヒョウなど、異国の動物が次々と日本にやってきている。そして珍獣の見世物として庶民に親しまれていた。
文政4年(1821)、長崎に雌雄一組の「らくだ」が輸入され、翌年から大坂・江戸で見世物として評判になった。
江戸では、奇鳥珍獣の見世物として孔雀(くじゃく)茶屋、花鳥(かちょう)茶屋、珍物茶屋などが下谷(したや)広徳寺、両国広小路、浅草にあって、木戸銭(お茶代)12文(もん)で見られていたから、江戸っ子は珍獣なども見慣れていたとはいうものの、らくだにはさすがに驚かされたようである。
図版は、文政8年(1825)刊の『和合駱駝之世界(わごうらくだのせかい)』という合巻(ごうかん)に見られるらくだである。
長崎の遊郭円山(まるやま)の遊女に入れ込んだオランダ人が、愛の証(あかし)に雌雄のらくだを贈ろうと連れてくる。らくだは夫婦仲の良い動物で「和合」の象徴でもあったから、それにあやかりたいというわけである。しかし、大きな図体でしかも背中にこぶのあるらくだに人々は「いやはや大変な化け物」と驚き、遊女は腰を抜かして逃げようとしている。見世物でらくだを初めて見た江戸っ子もそう思ったにちがいない。
このあと、扱いに困った遊女はらくだを見世物師に譲ってしまい、らくだの見世物は大当たりに当たって、らくだ見たさに群衆がどっと押し寄せる。見るだけでご利益があるうえに、その絵姿も魔除けになるからと絵も飛ぶように売れる。年中喧嘩の絶えない夫婦は「らくだの夫婦を見習え」とまで言われる始末。庶民の「らくだフィーバー」の様子が描かれている。
このらくだとともに文政期に流行った見世物が、もうひとつある。図版のらくだをつれてきたオランダ人の服装は、当時流行の唐人(とうじん)趣味であらわされているが、こういった扮装をして踊る「カンカンノウ」という唐人踊りの見世物である。文政5年(1822)の春頃から大坂で流行りだし、江戸の葺屋河岸(ふきやがし)の見世物小屋で当たると、それから両国、深川などでも興行され、大いに評判を呼んだ。
落語の「らくだ」に、この「カンカンノウ」が登場する。
「らくだ」と綽名(あだな)されている馬さんという乱暴者が住む長屋へ、馬さんの兄貴分という、これも人柄のあまりよくない人物が訪ねてきて、季節はずれの鰒(ふぐ)を食べたらくだ(馬さん)が死んでいるのを発見する。らくだの葬式を出してやろうと思うが金がない。そこへ通りかかった屑屋(くずや)を呼び止め、家財道具を売り払おうとするが売れる物が何もなく、大家に香典や酒などの差し入れをするように屑屋に掛け合わせるが拒否される。それならばと大家のところへ、らくだの死体を兄貴分と屑屋が持って行き、死体にカンカンノウを踊らせる。気味悪がった大家は仕方なく香典や酒などを出すというのが噺(はなし)の前半である。
カンカンノウといい、らくだといい、この落語の原話は、これらの見世物が流行っていた文政の頃に成立したものか、または、その時期を想定して作り上げられたものなのだろう。
『和合駱駝之世界』(文政8年〈1825〉刊、国立国会図書館蔵)より。
合巻…文化4年(1807)以降、近代初頭まで流行した草双紙の一種。5丁1冊の草双紙3~4冊を合冊した体裁のもの。
唐人踊り…江戸時代、長崎の中国人から伝えられ流行した中国風の踊り。唐人の扮装をして、胡弓、太鼓などの楽器に合わせて歌を歌いながら踊った。