第79回 芋を洗うようなにぎわい
年の暮れ近くになるとクリスマス商戦のジングルベルで慌ただしさをかき立てるが、それが終わると大晦日までは案外静かなのが現代の世相である。
江戸の年末は浅草寺での年(とし)の市に代表されるように、町中がどこかせわしなく落ち着きがない。寒修行で練り歩く寒念仏の声や僧侶姿で銭貰(ぜにもら)いする願人坊主(がんにんぼうず)の「まかしょ」の掛け声、新年の幸運を運ぶと唱えながら門付(かどづけ。物貰いのこと)する節季候(せきぞろ)の鉦(かね)や太鼓、簓(ささら。竹製の楽器)がやかましかった。
たとえば、寒空のなか浅草寺の年の市帰りの人出を目当てにした「唐の芋」を焼いて売る商売も盛んであった。この「唐の芋」は「からのいも」と呼んで、サツマイモのことをいう。琉球(沖縄県)から薩摩藩(鹿児島県)に栽培方法が1700年頃に伝来し、やがて八代将軍徳川吉宗の時代に、青木昆陽(あおきこんよう)が広く全国的に栽培をすすめたことはよく知られている。今では「紅○○」と称する甘いサツマイモがあちこちの店頭で見られる。
同じく「唐の芋」と書いて「とうのいも」と読めば、これはサトイモのことである。鎌倉時代にはすでに栽培が盛んになり、サトイモ好きもけっこう多かったようである。
江戸っ子はサトイモの子芋のほうを好んだようなのだが、『徒然草』の60段目に、盛親(じょうしん)という僧侶は親芋を好んで食べていたとある。その盛親は銭300貫(永楽通宝で30万文〈もん〉)の遺産を貰うと、これを京都のさる人に預け、必要に応じて10貫ずつ取り寄せては、それで好きなサトイモを買い求めて食べていたという。
この逸話はサトイモ好きの僧侶の話というばかりでなく、1300年代の日本の京都にカネを預かりカネを運用するのを商売にしていた人が存在していたことを物語る話としても有名である。土倉と呼ばれる金融業者がそれで、これが後の江戸時代となると、金商(かねあきない)とか銭屋と呼ばれ、貨幣経済の発達により両替商となる一方、質屋にもなってゆく。やがて両替商は現在の銀行になるわけで、経済評論家や金融業界からそんな話を聞いたことがないと言われようが、ヨーロッパより金融界の成立は日本のほうが早い。
ところで、江戸時代を通じて単にイモといえばサトイモのことを言った。
だから、浅草寺の年の市や、新年の神社などのにぎわいで、立錐(りっすい)の余地もない様を「芋を洗うようだ」と形容するのも、サトイモのことである。水を張った桶やたらいに隙間なくサトイモを入れて、それを棒や板でゴシゴシかき回して洗う様子をして「芋を洗うようだ」と形容したわけである。芋を洗うような人出の年の市が過ぎ、大晦日から一夜明けると、暮れの騒動を忘れたかのように江戸は静かで穏やかな元朝を迎えた。
浅草寺の年の市の図。境内に人があふれて、芋を洗うようなにぎわいであった。『江戸年中行事』(嘉永4年〈1851〉刊)より。
八代将軍徳川吉宗…1684~1751。紀州家五代藩主から享保元年(1716)将軍となる。貨幣改鋳、学問奨励をし、新田開発や年貢の増収などの幕政改革(享保の改革)を行った 。
青木昆陽…1698~1769。江戸中期の儒者・蘭学者。幕府の書物奉行。日本橋小田原町の魚問屋に生まれ、京都の伊藤東涯に学ぶ。「蕃薯考(ばんしょこう)」を著して救荒作物としての甘藷(かんしょ。サツマイモ)の栽培・普及につとめ、「甘藷先生」と呼ばれた。