第74回 武士とボーナス

 サラリーマンのボーナスの話には少し気が早いが、江戸幕府の幕臣たちにとって、10月はボーナスをもらうような気分になった月だった。というのも、年俸の半分にあたる切米(きりまい)が、この10月に支給されるからである。
 たとえば200石(こく)取りの幕臣なら、100石(6000㎏)の切米が支払われる。
 切米が支給される幕臣(旗本・御家人)の数はおよそ2万人いた。2万人にいっせいにコメを支給するのは物理的に無理だから、クジ引きで順番を決めたのである。それを「玉落ち」とも「玉」ともいう。名前を書いた紙片を丸めて玉状にしたもので抽選を行った。
 「玉落ち」でラッキーにも早い順番が当たり、10月上旬の支給になった者は、新米の出まわる前、コメ相場が高騰するピーク時に支給される。それを札差(ふださし。蔵宿)に売り、札差は高い相場へ新米を流し現金化するわけだから、札差も幕臣も何かと得をする。
 それに対し、「玉落ち」でビリになった者は、コメ相場が落ち着き下落傾向にある時に札差へ売り、札差は相場より高値のコメを買い取る羽目になるので、いい顔はしない。
 そこで幕府は、クジ引きの「玉落ち」で有利不利にならないように、江戸城内に、100石あたり35両前後の基準米価を張り出すことにした。これを「張紙値段」という。これによって不公平はなくなるはずだったのだが、現実には順番が早ければ早いほどコメ相場が高いわけだから、「玉落ち」の早い者に余得が生まれるのは避けられなかった。
 公式の規定では100石につき札差の口利き手数料が一分金(いちぶきん)1枚、つまり小判一両の4分の1、札差が米問屋へ売却する手数料は一分金2枚で、その内訳は、3分の2が運送方などの実費だったのだが、両方の手数料を合わせると約2%に相当する。現在の商社などの口銭は、この札差以来の伝統を引き継いでいるわけである。
 もし米相場が高騰していて、「張紙値段」よりも2、3割も高値でコメが売買されているとなると、札差は旗本・御家人から手数料は取らなかったようで、逆に札差のほうから手数料くらいの「献金」があったようである。クジ運に恵まれた武士たちは一分金3枚以上の得をするのだから、ちょっとしたボーナス気分に浸ることができたろうと思われる。
 幕末まで時代が下るにつれて貨幣は小さく、なおかつ品位(金の含有率)も低下し、悪貨の二分金も造る。「玉落ち」で一分金何枚かが得をしたとか、しないとか、クジ運に一喜一憂する武士たちがいて、資本主義経済の代名詞である相場(米相場)に武士たちも無縁ではいられなかった。
 貨幣を小さくしたり品位を落とさなければならないほど幕府の財政は困窮し、武士の経済力も縮んでゆく。その経済破綻の先に明治維新があったのである。

夢の中で大金持ちになった金々先生が、吉原の遊女の前で、金貨を升に入れて節分の豆のように撒(ま)いているところ。小判と一緒に撒かれている小さな四角のものが一分金。恋川春町(こいかわはるまち)作の黄表紙(きびょうし)『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』(安永4年〈1775〉刊)より。

切米…江戸時代、知行地(ちぎょうち)を与えられていない幕臣に対して、春(2月、年給額の4分の1)、夏(5月、同4分の1)、冬(10月、同2分の1)の3回に分割して支給される扶持米(ふちまい)。

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