第 8回 七福神詣
正月といえば初詣だが、今も各地で七福神詣が行われている。
最近では、七福神めぐりをするとご利益(りやく)があるうえに、七福神のキャラクターグッズも集められるとあって、若い女性たちの姿もちらほら見かけるようになった。
七福神とは、恵比寿(蛭子、えびす)・大黒天(だいこくてん)・毘沙門天(びしゃもんてん)・弁財天(べんざいてん)・布袋(ほてい)・福禄寿(ふくろくじゅ)・寿老人(じゅろうじん)の七人の福神(地方によって変わることもある)をまつる信仰である。これは、室町時代、中国の「竹林(ちくりん)の七賢人」にならい、あるいは経典の「七離即滅(しちりそくめつ)、七福即生(しちふくそくしょう)」にもとづく聖数「七」に由来して生まれたともいわれる。
江戸後期、商業資本主義の発達した田沼時代になると、お金をたくさん儲けたいと夢みる町人たちが増え、一年の福運を祈って正月に七福神を参詣するようになる。江戸では、隅田川七福神、目黒七福神などが有名であった。
七福神詣のはじまりは、安永3年(1774)の夏、庶民が講中(こうじゅう、参詣の集団)を結び、小石川伝通院(でんづういん)の大黒天へ、その縁日の甲子(きのえね)の日に詣でたことだったようだ。ふだん気軽に外を歩けなかった江戸の女性たちも、講中ならば堂々と出歩くことができたのである。
これがさらに盛んになったのは、天明年間(1781~89)である。その流行にのって、七福神や七福神詣を趣向にした黄表紙(きびょうし)も多く作られた。図版は、七福神を七人の通人になぞらえた『通神多佳楽富年(つうじんたからぶね)』(天明2年刊)より。大田南畝(おおたなんぽ)も、『返々目出度鯛春参(かえすがえすめでたいはるまいり)』(天明4年刊)で、深川八幡の恵比寿、上野不忍池(しのばずいけ)の弁財天、小石川伝通院の大黒天、麹町善国寺の毘沙門天などを回る七福神詣を描いている。
そして、文政年間(1818~29)以降、七福神詣は大流行して、江戸の人々の正月の一大レジャーとなった。各寺社では、縁起物の宝船絵がさかんに配られた。この宝船絵には、回文(かいぶん、上から読んでも下から読んでも同じ文句)で、「ながきよのとおのねぶりのみなめざめなみのりぶねのおとのよきかな(永き世の遠の眠りのみな目ざめ波乗り船の音のよきかな)」といった歌などが書かれていて、これを正月二日、枕の下に入れて寝ると吉夢を見るといわれた。
七人の通神が毎日遊び暮らしている。あるとき、弁天に振られた毘沙門天が、腹いせに大黒らを酔わせて悪さをするが、その後仲直りをして、皆で再び宝船に会したところ。右上の歌は、回文「とおくただなずなになずなたたくおと(遠くただ薺に薺叩く音)」。薺は春の七草のひとつで、叩いて七草粥(ななくさがゆ)に入れる。(『通神多佳楽富年』東京都立中央図書館加賀文庫蔵)
田沼時代…田沼意次(おきつぐ)が十代将軍徳川家治(いえはる)の側用人(そばようにん)・老中(ろうじゅう)として活躍した明和4年(1767)~天明6年(1786)。商業経済が発達して新しい文化が起こった、江戸のバブル期ともいうべき時代。
大田南畝…1749~1823。江戸後期の狂歌師。幕臣。別号、蜀山人(しょくさんじん)、四方赤良(よものあから)。洒落本、黄表紙などの作者としても知られる。