第105回 初卯と梅見
暖冬で早くも梅が開いたと聞いたと思ったら、突然の寒波襲来。先日、関東も大雪にみまわれ大混乱であった。受験シーズンのいまごろ、受験生が合格祈願に訪れる湯島天神には、梅が咲きはじめるころなのだが。
梅は中国から渡来した品種で、日本では古来より歌人や学者、文人に愛された。菅原道真(すがわらのみちざね)の「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花…」の和歌など、梅はさまざまな古典文学や絵画で描かれてきた。そして桜より早く春を告げる花として、江戸の庶民のあいだでも梅は愛(め)でられるようになる。
江戸の昔、と言っても江戸後期の文化元年(1804)ことであるが、隅田川の東岸の向島(むこうじま)に、四季に花咲く花木を植えた風流な花園「百花園(ひゃっかえん)」がつくられた。この園を開いた佐原鞠塢(きくう)は、江戸の多くの文人たちと交流があったため、彼らから360株もの梅の木の寄贈を受け、酒井抱一(さかいほういつ)が、梅は百花のさきがけであるとして「百花園」と命名したのである。
同じ江戸後期のころ、亀戸(かめいど)村(江東区亀戸)には、「臥竜梅(がりょうばい)」という有名な梅の古木があり、ちょっと遠出してこれを見に行くのが江戸の人びとの楽しみでもあった。亀戸には亀戸天満宮(てんまんぐう)があるが、そのすぐ近くの梅屋敷(うめやしき)というところに臥竜梅はあり、竜が寝そべっているような形であった。これを「臥竜梅」と命名したのは、水戸黄門(こうもん)こと水戸光圀(みつくに)だったと伝えられている。
正月初めの卯(う)の日を「初卯(はつう)」と言い、江戸ではこの日に「初卯詣(もうで)」をした。これは「妙義詣(みょうぎもうで)」とも称し、このころ盛んになった信仰である。亀戸天満宮の妙義社に参詣したあと、すぐ近くの臥竜梅を見てから帰るのが江戸の観梅コースだった。
「初卯」の日は、臥竜梅はまだ蕾(つぼみ)のころだったのだろう。川柳にはこう詠(よ)まれている。
初卯の日まだ眠そうな臥竜梅
(『誹風柳多留』37編。文化4年〈1807〉刊)
そして、二の卯、三の卯の日と、12日ごとに日を追って咲き誇ってゆく梅を、人びとは楽しみに参詣していたのである(『俚言集覧』)。
図版は、文政9年(1826)刊の『江戸名所花暦(はなごよみ)』より「亀戸梅屋舗(やしき)」である。一帯が梅林であった様子がわかる。左下の女性の一行の後ろには「臥竜梅」があり、右のほうの茶屋では人びとが茶を飲んでくつろいでいる。
梅の花が咲けば当然、実がなる。いまは南高梅が売れ筋のようだが、臥竜梅のあった梅林の梅の木から採れた梅は梅干となって、これも江戸の庶民の口に入ったようである。酸っぱいが実はアルカリ性の特性を持つことから、解毒・整腸・利通剤などとしてばかりでなく、果肉は伸ばして消炎剤にもなり、江戸時代は重宝な実として祝儀にも使われた。
果たして薬効があるのか、呪(まじな)いなのかどうか、頭のこめかみに果肉を貼り付けた梅干婆は、最近では見ることもなくなって久しい。亀戸に訪れて臥竜梅を見たことがあるという小林一茶(こばやしいっさ)の句に、「古郷(ふるさと)や梅干婆が梅の花」がある。
故郷に帰った一茶を人びとはあまり歓待せず居心地はよくなかったらしいが、そんなよそよそしい老婆の家の庭にも梅の花が咲き、春が来ると人びとの気持ちも温かくなるかしらと、春に願いを込めたのであろう。
梅屋敷と臥竜梅。『江戸名所花暦』文政9年(1826)刊より。
百花園…現在は、都立公園「向島百花園」(墨田区東向島3丁目)。開園した佐原鞠塢は仙台出身の骨董商。江戸時代には文人墨客のサロンとして利用された。
酒井抱一…1761~1828。江戸後期の画家。名は忠因(ただなお)。姫路藩酒井忠以(ただざね)の弟として江戸に生まれる。仏門に入るがすぐに隠退して、書画俳諧など風流三昧の生活を送る。尾形光琳(こうりん)に私淑し、江戸の洒脱さを加えた画風をうちたて、「紅白梅図屏風」などを描いた。
亀戸天満宮…亀戸天神社(江東区亀戸3丁目)。菅原道真を祀り、学問の神様として親しまれている。
梅屋敷…現在の江東区亀戸3丁目にあった清香庵(せいこうあん)の別称。亀戸天満宮の東の喜右衛門の屋敷内にあった。「臥竜梅」は明治43年(1910)の水害で枯れ、梅林も失われた。
小林一茶…1763~1827。江戸後期の俳人。信濃(しなの)の人。14歳で江戸に出て俳諧を学び、全国行脚ののちに故郷に帰る。著に「おらが春」など。