第102回 酉の市と熊手
年末の商家では、酉(とり)の市(いち)で熊手(くまで)を買い替えて、歳(とし)の市で迎春の縁起物を買い揃える。どちらも年の瀬の風物詩として今も行われている。
酉の市は、11月の酉の日に行われる鷲(おおとり)神社の祭礼で、江戸時代に盛んになった。今年は三の酉まであった。
三の酉まである年は火事が多いといわれる。江戸の三大大火と称される明暦3年(1657。振袖火事)と文化3年(1806。丙寅〈へいいん〉の火事)は三の酉の年だったけれど、安永元年(1772。目黒行人坂〈ぎょうにんざか〉の火事)は違うなど、三の酉まである年は火事が多いというのは俗説である。
もともと武士が武運長久を祈願した行事だったのが、江戸中期の明和・安永年間(1764~81)頃に、それまで流行(はや)っていた江戸の郊外の花又村(足立区花畑)にある長国寺から、浅草竜泉寺の鷲神社がとって代わり、浅草の酉の市とも呼ばれ、商売繁盛・開運のご利益を願う庶民で賑(にぎ)わうようになった(『東都歳時記』)。
酉の市といえば、すぐにお多福面(たふくめん)や宝船などが飾られている熊手を思い起こすが、もともと「酉」は「とりこむ」という縁起担ぎに由来されているとされ、熊手も富や幸運をかき集めるという縁起物として売り出されたようである。
熊手とは、熊の手に似た鉄製の爪を棒に付けて何かを引っかけたり、物を掘り起こしたりする道具のことであった。それが、散っている穀物や落ち葉をかき集めたり庭掃きなどに使うために、先端を曲げた竹を扇状に並べ熊手箒(ぼうき)とも呼ばれる軽く便利な竹製となり、これが酉の市の熊手として売られた。
ところで、この熊手をトレードマークにしていた江戸時代の戯作者(げさくしゃ)がいた。『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』で一躍ベストセラー作者となり、筆一本で暮らせる幸運を手に入れた十返舎一九(じっぺんしゃいっく)である。明和2年(1765)酉年生まれの一九は、生まれた酉年にちなんで熊手を印章に使ったのである。今年は、一九の生誕250年になる。
最近その存在が知られた『続道中膝栗毛』二編追加(文化10年〈1813〉刊)では、弥次郎兵衛(やじろべえ)と喜多八(きたはち)のコンビは、播州高砂(ばんしゅうたかさご。兵庫県高砂市)へ相生(あいおい)の松を見ようとやって来る。
相生の松とは、その木の下に熊手箒を持った老人の翁(おきな)と、横に妻の媼(おうな)が立っている図のことである。永(なが)の偕老同穴(かいろうどうけつ)を祝う、結婚式で謡われる謡曲などの「高砂」もこれである。
高砂神社の手前で肥桶(こえおけ)を担いだ百姓と弥次郎兵衛がぶつかり、怒る弥次郎兵衛と百姓のあいだでひと悶着(もんちゃく)があったあと、二人は高砂神社に参拝し相生の松を見る。
境内の茶屋で百年寿命が延びるという寿命餅(じゅみょうもち)を食べた二人は、餅を10個も食べて喉(のど)につかえた70過ぎの欲張り老婆を介抱(かいほう)してやる騒動となるが、ここは高砂神社の相生の松の茶屋のことなれば、老婆も絵で画かれる熊手を持つ翁や媼に負けないくらい千年も長生きできるだろうと笑って慰め、播州旅行をつづけるのであった。
老人が神様に祈願して遊里に遊び、米寿の姥玉(うばたま)となじみになって、めでたく相生の松の下の翁と媼となる二人。古阿三蝶(こあみちょう)の黄表紙(きびょうし)『昔々相生松(むかしむかしあいおいのまつ)』天明6年(1786)刊より。
十返舎一九…1765~1831。江戸後期の戯作者。本名・重田貞一。はじめ大坂で浄瑠璃作者となったが、江戸に出て黄表紙作者となり、その後、洒落本(しゃれぼん)、滑稽本(こっけいぼん)、読本(よみほん)、咄本(はなしぼん)などに多くの作品を残した。