第90回 行水
この5月は猛暑日続きで、観測史上最高気温の日が連続した月だったとのこと、こんなに暑いと行水(ぎょうずい)だというと、古いと笑われそうである。もっとも、よく考えれば行水しようにも小さなマンションの我が家には、そんな庭もない。
漢字で書くと「行水」と表記するように、もともとは神社・仏閣などの修行で身を潔斎(けっさい)するための水浴びが起源であった。その名残りで現在でも修行僧のあいだで行水は修行として行われているわけだが、江戸時代になると夏の季節に大きな盥(たらい)にぬるま湯を入れて湯浴(ゆあ)みすることも「行水」と言うようになった。
行水に使う大きな盥の底に焚き口をつけて五右衛門(ごえもん)風呂や据(すえ)風呂ができたものらしいが、そうした風呂を舟に取り付け、この舟を港や川端などへ停泊させて湯銭(ゆせん)をとって入浴させたのが「湯船(ゆぶね)」であった。『道中膝栗毛(どうちゅうひざくりげ)』のコンビ弥次さん喜多さんは江戸の人だったのでもっぱら銭湯に通っていたのだが、この「湯船」を瀬戸内海で見て珍しがっている。関西では、客を待つ「湯船」が船着き場でよく見られた光景だったようで、その「湯船」での入浴は「烏(からす)の行水」のように入浴時間は短かったことだろう。
信心深い江戸っ子の行水といえば、江戸の三不動のひとつで「滝不動」としても有名な目黒不動にわざわざ出掛け、垢離場(こりば)の独鈷(とっこ)の滝(倶利伽羅〈くりから〉の滝とも)に打たれることでもあったろう。信心深い江戸っ子と断ったのは、目黒不動詣(もうで)が表向きの理由で、目黒の名物餅花を食べ、桐屋の飴を舐(な)めながら参詣したついでに、帰りは目黒道から東海道の品川宿へ出て品川遊廓で遊ぶ者も多かったからである。
江戸時代になって50年もすると、宗教的な行水から暑気払いのための湯浴みへと一般化していったようである。女性が庭で行水をする絵は井原西鶴(さいかく)の『好色一代男』(天和2年〈1682〉刊)の絵が有名で、屋根の上から遠眼鏡(とおめがね)で覗(のぞ)いているのが、まだ数え年で9歳ながら、ませたガキの主人公世之介(よのすけ)である。
女が盥のなかで行水しているように見えたが、実は汗が流れるくらいに自慰行為に耽(ふけ)っていたのを世之介が見とがめた情景なのである。それで女に世之介が言う。皆に行水のことは黙って言わないから、今夜8時すぎに、俺が部屋へ忍び込むから黙って俺の言うことを聞けと脅したのである。もっとも、それは実現せず、女に軽くいなされるわけだが。
井原西鶴と同門になったこともあり、平易な誹風の境地に達した俳人として名を残す鬼貫(おにつら)の句「行水の捨てどころなき虫の声」の風流から比べると、世之介と女と行水の話は落差がありすぎるわけだが、行水に使った湯をその辺に捨てると、風情ある虫の音が止むと鬼貫は迷ったというわけで、その後、鬼貫の句は加賀の千代女(ちよじょ)の句とされる「朝顔に釣瓶(つるべ)とられて貰ひ水」と並び風流人の発句として有名になる。もっとも川柳では
鬼貫は行水だらひ持ち歩行(あるき) (『狂句梅柳』5編)
と、風流人もちょっとからかわれている。
5月から猛暑日がこのまま続くようだと、果たして今年の蝉しぐれはどうなのか、秋の訪れを告げる虫の声はどうだろうかと、鬼貫ほどの風流人ではない現代人でも心配になる異常気象でもある。
遠眼鏡で行水をする女を覗く世之介。井原西鶴『好色一代男』(天和2年〈1682〉刊)の挿絵。(小学館刊『新編日本古典文学全集66 井原西鶴集1』より)
『道中膝栗毛』…江戸の戯作者(げさくしゃ)・十返舎一九(じっぺんしゃいっく。1765~1831)の代表作。初編から続々編まで出たベストセラー。
鬼貫…1661~1738。上島氏。江戸前期の俳人。摂津国(せっつのくに)伊丹(いたみ)の人。少年の頃より松江重頼(しげより)に学び、のち談林俳諧に傾倒し、伊丹風俳諧の中心となるが、25歳で「まことの外に俳諧なし」と悟る。