第80回 湯屋の正月
正月11日は「鏡開き」であった。
神に供えた鏡餅を雑煮や汁粉に入れて食べる祝い事である。現代では鏡餅も真空パックに包まれて各家庭の神棚に飾られる御時世となり、なかの鏡餅が切餅になっているものもあって、手間いらずに美味しく食べられる
この年中行事が庶民のあいだに定着したのは、江戸時代になってからのことである。商家では「蔵開き」ともいう。武家では「具足(ぐそく)開き」といって、武具の鐙(あぶみ)や冑(かぶと)に供えた具足餅(鏡餅)を食べて祝った。
江戸時代、湯屋では番台に鏡餅を飾った。番台は入口で客から湯銭(ゆせん。入浴料)をもらい、脱衣所で客の着物や履物が取り替わったりしないように銭湯の主人などが見張りをする場所だった。いまでは銭湯に番台はなくなってしまったが、古い銭湯で昔風な番台を発見することもある。
山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙(きびょうし)『賢愚湊銭湯新話(けんぐいりこみせんとうしんわ)』(享和2年〈1802〉刊)は、江戸の銭湯での人間模様をスケッチし、式亭三馬(しきていさんば)のヒット作『浮世風呂』(文化6~10年〈1809~13〉刊)に影響を与えた作品である。
『賢愚湊銭湯新話』は、大きな鏡餅が置かれた番台の絵からはじまる(図版参照)。正月の湯屋の風景である。
鏡餅の前の三方(さんぼう)には、客からの湯銭のお捻(ひね)りがうず高く積まれていて、すでに多くの客が訪れていることがわかる。おやじが火箸(ひばし)を差す箱火鉢には、貸し糠袋(ぬかぶくろ)が掛けられ、番台の後ろには貸手拭が掛けられている。こういう貸出のシステムは、すでに江戸時代からあった。手に草履(ぞうり)をもった男が番台のおやじに「かぼちゃのような頭のじいさまが、履き違えていったということだ。裸足では帰られずこれは当惑千万」と困っている。
湯屋は湿度が高い場所だから、番台の鏡餅にもかびが生えやすかったろう。いまはエアコンがあるからそんな心配はないが、餅のかびを払いながら焼いて食べた昔を思い出す。
鏡餅などに生える菌類のことを「かび」と呼び、「かびる」と言っていたのは平安時代に遡る。「かびる」ことを「かびが生える」と一般的に言うが、『日葡辞書』によると「かびがつく」とも、「かびが寝る」とも呼んでいて、これは菌類のかびが、あたりに寝そべるように広がっている様子を表現したものであろう。江戸時代から「かびが生える」という言い方が一般的に使われるようになり、ほかには「かびがたかった」などとも表現している。漢字では「黴」と書くが、江戸時代の代表的な字典『康煕(こうき)字典』には「黴」を「かび」とは読んでおらず、この当て字の歴史は案外浅く、化学や細菌類の研究が進歩して「黴菌(ばいきん)」と書くようになってからのようである。
さて、江戸の町内に一軒か二軒あった湯屋は、正月元旦から営業していた。「初湯」に入る老若男女が訪れてにぎわっていた。
正月三が日は、女湯では、板の間に茶釜を据えて大福茶(おおぶくちゃ)を振る舞い、男湯のほうは、男湯だけにあった二階で大福茶を振る舞った。そして、11日の鏡開きの日には、二階で鏡餅の入った雑煮や汁粉に舌鼓を打つ馴染(なじ)みの男の客もいた。
正月の三が日と七草(7日)、11日の鏡開きは、湯屋でも特別な日という意味の「紋日・物日(もんび・ものび)」であった。紋日・物日には、客は普段の湯銭に2文(もん)足した金をお捻りにして番台に置いた。寛政6年(1794)からは湯銭は10文となり、2文高い12文をお捻りにした。
正月16日は奉公人たちの藪入(やぶい)りの日であったが、湯屋は休業にすることができず営業していた。ただし、この日は「貰(もら)い湯」といって、すべての入浴料が湯屋の奉公人のボーナスになった。そして、その翌17日が湯屋の奉公人にとっての藪入りとなり、湯屋は休日になったのである。
正月の湯屋の番台には、鏡餅とお捻りを載せた三方が置かれている。山東京伝作『賢愚湊銭湯新話』(享和2年〈1802〉刊)より。
山東京伝…1761~1816。江戸後期の戯作者・浮世絵師。黄表紙・洒落本(しゃれぼん)の第一人者。
式亭三馬…1776~1822。江戸後期の戯作者・狂歌師。薬屋・化粧品店を生業とした。会話文で庶民の暮らしを活写した滑稽本(こっけいぼん)『浮世風呂』『浮世床』をはじめ多くの著作がある。
『日葡辞書』…イエズス会宣教師数名が編集し、慶長8年(1603)に刊行した日本語―ポルトガル語の辞書。翌年に補遺刊行。ポルトガル式のローマ字で見出しをつけているので、当時の発音がわかる。
『康煕字典』…中国の字書。清の康熙帝の勅命で編集され、康熙55年(1716)に成立。4万7035字を214部・画数順に分類配列して解説を加えたもの。以後の辞書の規範となっている。