第十九回 「だめだ信号無視! 吉原残照」

 前回・前々回は、書いた覚えがまったくないのに更新だけはされているようで、ホッとしつつも不思議な気分だ。
 眠っている間にこびとが靴を作ってくれるグリム童話『小人と靴屋』は、ほとんどの漫画家が(納期のある仕事の人が)心の底から
「あのこびとさんがいてくれたらなあ!」
 と思ったこと数知れず、というお話だと思うのだが、その奇跡がたてつづけに2度も私の身に起こったということだろうか。
 まあいい。
 久しぶりに自分の脳で考え、自分の足でテーマを探してみよう。
 珍しくぽっかり休日となった日曜日、都電荒川線にとび乗った。
 どこで降りようかと考えながらゆられているうちに、そうだ、終点の三ノ輪橋駅で降りて、吉原に行こう、と考えた。

 吉田の野郎、まさかソープに? と思った方はいやらしい方だ。
 土手通りを歩き、吉原大門前を通って江戸~昭和初期の花柳界に思いをはせつつ浅草に出よう、というプランである。何よりたまの休日であり妻連れだ。
 でも一人だったとしても、私は若い頃からフーゾクというものにあまりそそられないのだった。興味がないわけではないが、積極的にそういう場所に行きたいという気持ちがわかない。
 であるが、いわゆる遊郭跡、赤線跡といわれる場所に対する興味は年々高まってきている。フーゾクに興味がないという気持ちの裏には「なんかヤバそう、怖そう、ボられたらいやだ」という臆病さがあるわけだが、そういう一般社会から外れた場所での仕事、暮らし方、あるいは街のたたずまいに、少しづつ興味を覚えてきた。
 遊び好きではなくて街好き。今回の一枚(クリックすると大きく表示します)
 保健体育じゃなくて社会科。よくわからんが。
 それはフーゾク産業に金を落とさない、単なるのぞき趣味であるともいえ、うしろめたいような気もするのだが、いにしえのそういう場所を思う時の懐旧の情のようなものはおさえがたい。
 そんなことを思いながら、土手通りを歩く。
 今は埋めたてられ、暗渠となった山谷掘の土手だったから、土手通り。
 夜、隅田川から山谷掘に小舟を乗りいれた遊客たちの目にうつる不夜城・吉原の、大人のアミューズメント施設っぷりは、どうだったのだろうか。
 失われてしまったもの、もはや二度と再現できないものに対するこの興味は、「恐竜って実際にそばで見たらどうだったんだ?」というのと、根はいっしょなのかもしれない。

 恐竜のことを考えたとたんに、自転車に乗った小学生3人が、赤信号を無視して交差点を渡ってくる。
 低学年らしく、よろよろと危なっかしい。日曜日だからか交通量は少ないが、ちゃんと両側からクルマが普通に迫ってきている。一人のわんぱく、サブわんぱく、「よそうよ」といちおう言ってみる係の弟分、といった構成が一瞬で見てとれ、自然に日本語が出た。
「あぶないよー。信号守ってねー」
 危険を知らせるためなのに、子供番組のお兄さんのようなやわらかすぎる声が出たことを、出しながら恥じた。
 下町の親父なら
「あぶねーぞこらぁ!」
 と怒鳴りつけ、頭の一つぐらいひっぱたくかもしれない。
 しかもおれ、相手が中学生だったら注意してないよな、などとちょっぴり情けない思いで、「今叱られた気がするのは気のせい」という気配を発しながらチャリンコをこいでゆく下町っ子たちを見送った。
 歩道にはよく見るとずいぶん多くの「横断禁止」のでかい標識があり、年配の方々も含めた「横断歩道渡らない率」の高さを思い、心配な気持ちになった。
 土手通り沿いにとなりあっている、戦災をまぬがれた昭和初期の建築だという【桜なべ 中江】と【土手の伊勢屋】という天ぷら屋を携帯のカメラで撮り、いつか食べにこよう、などと思っていたら、帰宅後に日記をめくり返して気づいたのだが【中江】には20年ほど前にきたことがあった。
 吉原に何しに行ったんだ20代、と思った方はいやらしい方だ。
 当時、漫画家仲間の草野球チームに参加しており、荒川の河川敷での試合のあとに、そこで飲食をしたのだった。
 吉原近くの飲食店に入った、という記憶はあったのだが、馬料理だったことが抜け落ちているのは、もう疲れ果ててなんでもいいや、とにかくビールくれ、ということだったのだろうか。
 その先に吉原大門の交差点。「見返り柳」と石碑がある。
 そういえば妻・伊藤理佐は吉原を舞台にした映画『さくらん』に、遊女姿でエキストラ出演しているのだった。
「こいつも江戸時代にここで働いていたんだなあ… 苦労をしたね」
 などと、ちょっとそれはちがうようなことを思っていると、小腹がへってきた。
 千束通りから浅草ひさご通りに入り、浅草六区のにぎわいと喧騒を横目に見ながら食べもの屋を物色。一軒の食堂に入る。
 甘じょっぱい牛スジ煮込みと、あっさりした焼きそば、ビール。テレビの競馬中継に見入るお父さんたち。何かが江戸時代からつながっているような感覚があり、満足した。
 女性が春をひさぐということの重さにまったく触れず、なんだかダメな感じだが、お許しいただきたい。
 江戸川乱歩作『屋根裏の散歩者』という小説がある。
 共同住宅の屋根裏を這いまわる変態が、明智小五郎に犯罪を暴かれる、という話だったと思うが、こういう場所はまさに世間の屋根裏だろう。
 さしずめ自分は、屋根裏に入りこむことはしないが、ちょっとだけ顔をつっこんでみたい散歩者、というところだろうか。
 またゆっくり、このへんは歩きにこようと思う。大金をポケットに入れて、もより駅で送迎車を待つ方向に興味がいかないよう気をつけながら。
 帰宅後、江戸古地図の本を開いてみた。
「ここが吉原大門……まわりは田んぼばっかりだったのか。そして……おお、今日このへんで小学生に注意したのか!」
 よくわからないが、なんだかすごく楽しく、興奮した。

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