あちこちで日本語を使い続けて12回目。
第一回からざっと読んでみて、一年前の夏との「はっきりとしたちがい」を発見したので、報告しておこう。
第四回で「2007年の夏は、Tシャツの下にアンダーウェアを着て、過剰冷房対策にした」と書いた。
その習慣は今年の夏、あっというまにすたれた。
体感する暑さにほとんど変わりはない。暑い。
でも今年は下着などなしで大丈夫、ということになった理由は、店舗や公共施設でのエアコンの設定温度が、明らかに上がったからだと思う。
耐えられる。
薄着の客はガタガタふるえ、店員はセーターで防寒をしているようなふざけた過剰冷房が、去年までよりはっきりとへった。(大げさに書いています)
省エネに対する意識が、石油、食料をはじめとする物価高の影響で「やむなく」一気に高まったことが、体でわかる。
いいことだ、と思いながらも、来年、再来年はどのような変化が我々を待っているのだろうという重い気持ちも、もう消えることはない。
第十二回 「弱魔法の夏」
パンツいっちょうノーエアコンで、PCには凍らせた保冷剤をのせて、せめてもの省エネをしているつもりになっているわけだが、マンガの仕事のときはさすがに紙が手汗で湿るため、エアコンにたよらずにはいられない。
Tシャツとパンツ(トランクス)であれば、設定温度は29~30度で十分であり、大勢の人が働く職場でもこのクールビズを勧めたいところだが、「ビズ」からはげしく遠ざかるかっこうであることもまちがいなく、ちょっと無理でしょうか。
それにしても、部屋を涼しく、まるで夏じゃないかのようにする技術は、大昔の人間から見たらまるで魔法だろう。
例えば『ドラクエ』にはヒャダルコとかヒャダインという冷凍系の魔法があったが、まさにそれ。エアコンは、我々凡人が誰でも氷の魔法を唱えられるように開発された、呪具というか神器なのである。
テレビ然り、ケータイ然りであり、大昔までいかなくたって、そのブラックボックスの中がどうなっているのかまったくわからない私のような人間にとっては、ほとんどの機械が魔法であるといっていい。
科学技術を現代の魔法であると定義するならば、物語の中の魔法も「神秘的な理論や技術に基づいた、ある種のハイテク」であるといえるのだろう。
薄気味が悪く恐ろしいものでありつつ、学校で習うものでもあるという設定で、世界中で大ヒットしたジュブナイルもありますね。
Tシャツとパンツ(トランクス)であれば、設定温度は29~30度で十分であり、大勢の人が働く職場でもこのクールビズを勧めたいところだが、「ビズ」からはげしく遠ざかるかっこうであることもまちがいなく、ちょっと無理でしょうか。
それにしても、部屋を涼しく、まるで夏じゃないかのようにする技術は、大昔の人間から見たらまるで魔法だろう。
例えば『ドラクエ』にはヒャダルコとかヒャダインという冷凍系の魔法があったが、まさにそれ。エアコンは、我々凡人が誰でも氷の魔法を唱えられるように開発された、呪具というか神器なのである。
テレビ然り、ケータイ然りであり、大昔までいかなくたって、そのブラックボックスの中がどうなっているのかまったくわからない私のような人間にとっては、ほとんどの機械が魔法であるといっていい。
科学技術を現代の魔法であると定義するならば、物語の中の魔法も「神秘的な理論や技術に基づいた、ある種のハイテク」であるといえるのだろう。
薄気味が悪く恐ろしいものでありつつ、学校で習うものでもあるという設定で、世界中で大ヒットしたジュブナイルもありますね。
西洋のイメージで書けば「魔法、魔術、魔道」となり、東洋的に書くと「幻術、妖術、仙術、方術、道術」などになるか。
中でも「魔道」という単語は、青少年のころに知り、かっこいいと思ったことで思い出深い。
ロバート・E・ハワードの『英雄コナン』シリーズ。シュワルツェネッガー主演で映画化もされたあのヒロイック・ファンタジーの中で、魔法使いは「魔道士」と呼ばれ、その手垢のついていない語感にしびれた。たしか若き日の荒俣宏氏訳による造語ということではなかったか。
魔法ではどうしても童話的なイメージとか、「サリーちゃん」「ミンキーモモ」などの魔法少女が浮かんでしまうのを、魔道士という単語がふせいだ。
もともと仏教系のものであった言葉が、西洋の「ソーサリィ」の訳となり新たな生命を持った。最初は「剣と魔法の物語」のファンしか知らない用語だっただろうが、家庭用ゲーム機の発売で一気にポピュラーになった。
だが、私が一番好きなのは「妖術」だ。
キツネやタヌキが大入道に化けたりするような、ハッタリをかましている感じがあり、ゾッとしつつ親しみが持てる。
術者の人間性は、基本、ワルモノ。ゲームには白魔道士などという善の魔法使いが出てくるけど「白妖術使い」はいないだろう。
それでいて、悪の世界でもメジャーになれないような、そんな小物感というか、傍流感が「妖術使い」という日本語にはある。王の参謀とかになれない感じ。いや、あくまで私の感じ方なわけですが。
人をびっくりさせる程度なら、CO2の排出も少なくてすみそうだ。
中でも「魔道」という単語は、青少年のころに知り、かっこいいと思ったことで思い出深い。
ロバート・E・ハワードの『英雄コナン』シリーズ。シュワルツェネッガー主演で映画化もされたあのヒロイック・ファンタジーの中で、魔法使いは「魔道士」と呼ばれ、その手垢のついていない語感にしびれた。たしか若き日の荒俣宏氏訳による造語ということではなかったか。
魔法ではどうしても童話的なイメージとか、「サリーちゃん」「ミンキーモモ」などの魔法少女が浮かんでしまうのを、魔道士という単語がふせいだ。
もともと仏教系のものであった言葉が、西洋の「ソーサリィ」の訳となり新たな生命を持った。最初は「剣と魔法の物語」のファンしか知らない用語だっただろうが、家庭用ゲーム機の発売で一気にポピュラーになった。
だが、私が一番好きなのは「妖術」だ。
キツネやタヌキが大入道に化けたりするような、ハッタリをかましている感じがあり、ゾッとしつつ親しみが持てる。
術者の人間性は、基本、ワルモノ。ゲームには白魔道士などという善の魔法使いが出てくるけど「白妖術使い」はいないだろう。
それでいて、悪の世界でもメジャーになれないような、そんな小物感というか、傍流感が「妖術使い」という日本語にはある。王の参謀とかになれない感じ。いや、あくまで私の感じ方なわけですが。
人をびっくりさせる程度なら、CO2の排出も少なくてすみそうだ。
一方で「魔術」ということばには、ちょっとした思い入れがある。
どちらかというと超常現象ではなくて、まさにマジックを指すことばとして使われることが多いが、やはり昔の読書体験で「魔術師=怪人二十面相」という図式が出来上がっており、私の中では非常にポイントが高い。人々を大がかりな仕掛けであざむく大怪盗の大魔術には、ノスタルジーをともなう魅力がある。
マジシャンにあこがれていた時期があり、テレビのマジックショーも好きだった。
トラや美女が一瞬で消えるような、大がかりなマジック、いわゆるイリュージョンはやはり魔術と呼びたいけれど、手品という日本語もたいへん魅力的だ。
「手から品を出す」から手品ですよ。すばらしい。
同じ意味の古い日本語で「手妻」というものもあるが、これは手から妻を出すわけではなく「稲妻のようなすばやい手さばき」から来ているそうだ。
ネット検索によれば「品玉」という言葉もあるそうであり、それは知らなかったなあ。とてもおもしろい。
どちらにしろ人間が、天賦の才能とたゆまぬ修練とで得た「人を幻惑する術」が魔術、奇術であり、なんとなく「忍術、忍法」に近いものも感じる。
そういえば少年時代に愛読していた「マジック入門」には、
「バナナをローソクのように切って、クルミのかけらを芯のようにのせたものを用意し、それに火をつけて『ここに一本のローソクがあります』と言いつつ、いきなりムシャムシャ食べる!」
というヤケクソのような手品があった。
やろうとしてみたが、小学生の包丁さばきではバナナをきれいに成形することなどとてもできず、あきらめた。
成功していたら今ごろ魔術師になっていたかもしれず、残念だ。
どちらかというと超常現象ではなくて、まさにマジックを指すことばとして使われることが多いが、やはり昔の読書体験で「魔術師=怪人二十面相」という図式が出来上がっており、私の中では非常にポイントが高い。人々を大がかりな仕掛けであざむく大怪盗の大魔術には、ノスタルジーをともなう魅力がある。
マジシャンにあこがれていた時期があり、テレビのマジックショーも好きだった。
トラや美女が一瞬で消えるような、大がかりなマジック、いわゆるイリュージョンはやはり魔術と呼びたいけれど、手品という日本語もたいへん魅力的だ。
「手から品を出す」から手品ですよ。すばらしい。
同じ意味の古い日本語で「手妻」というものもあるが、これは手から妻を出すわけではなく「稲妻のようなすばやい手さばき」から来ているそうだ。
ネット検索によれば「品玉」という言葉もあるそうであり、それは知らなかったなあ。とてもおもしろい。
どちらにしろ人間が、天賦の才能とたゆまぬ修練とで得た「人を幻惑する術」が魔術、奇術であり、なんとなく「忍術、忍法」に近いものも感じる。
そういえば少年時代に愛読していた「マジック入門」には、
「バナナをローソクのように切って、クルミのかけらを芯のようにのせたものを用意し、それに火をつけて『ここに一本のローソクがあります』と言いつつ、いきなりムシャムシャ食べる!」
というヤケクソのような手品があった。
やろうとしてみたが、小学生の包丁さばきではバナナをきれいに成形することなどとてもできず、あきらめた。
成功していたら今ごろ魔術師になっていたかもしれず、残念だ。