第98回 飲み食べ笑う「えびす講」
10月20日(旧暦)は「えびす講」である。関西から伝えられた七福神のひとつ「えびす様」を祀(まつ)る「えびす講」は、江戸の商家や吉原でにぎやかに行われていた。
吉原では、この日は紋日(もんび)となったから、廓(くるわ)の中で素人狂言(しろうときょうげん)や浄瑠璃語(じょうるりがた)り、落咄(おとしばなし)などが華やかに催され、芸者たちはこぞって芸の見せどころの夜となった。遊女たちは馴染(なじ)みの客に自分の定紋(じょうもん)を染め抜いた手拭(てぬぐ)いを配る風習もあり、気の早い妓楼(ぎろう)では、この日から火鉢を出すこともあったという。
江戸の大きな商家では、盛大に知人や親類を呼んで宴席をもうけ、夜を明かして祝った。図版は、寛政の頃の商家のえびす講のしつらえの様子である。このように商売の神とされるえびす様にお供え物を上げて、商売繁盛を祈った。大勢で、買い方・売り方の二組に分かれて、座敷にある品物に千両、万両と法外な値段をつけて、売買の真似事をする催しも行われた。
江戸時代も幕末頃になると、えびす講では大黒様も同時に祀るようになった。嘉永4年〈1851〉刊の『東都遊覧年中行事』には、「商家夷(えびす)講とて夷大黒(だいこく)をまつり、客を招き酒食を設け音曲或いは躍(おど)りなど心々に遊楽す」とある。同じ商売の神様だからと、二神を一緒に祀り商売繁盛を祈願したものだろう。
もともとえびす様は、漁民や漁業関係者が祀っていた神様だった。だから、鯛(たい)を抱え烏帽子(えぼし)に釣竿(つりざお)を手にしたえびす様の置物が商家では飾られている。関西の西宮などでの「えべす様」は信仰熱は今でも衰えていないようだが、海神として崇(あが)めて現在にいたっているからである。
江戸時代以前から関西では商家で信仰熱が高かったえびす信仰が、人口の半分近くが武士である江戸でも盛んになったのは、海神として信仰の対象だったことが要因として大きい。
「佃煮(つくだに)」で有名な江戸の佃島は、寛永年間(1624~44)のこと、摂津西成(にしなり)郡佃村(現大阪市西淀川区)から、漁民たちが隅田川河口の干潟を拝領して移住した土地柄である。江戸湾や隅田川の漁猟権を独占的に与えられ、将軍に上納する白魚の保存食として佃煮を作るようになったわけで、大坂から移り住んだ漁民たちがえびす信仰も持ち込んだと考えられる。それがやがて、上方資本で江戸へ出店(でだな)ができて上方から商売で江戸へやって来た人たちが増えて行くと、海神としてだけでなく、収穫を招き、商売による致富をもたらす神様として、広くえびす信仰熱が高まったということであったろう。
ちなみに、江戸時代も半ば過ぎの1750年以降になると、享保の改革による地方名産の産業振興、その後の田沼意次(たぬまおきつぐ)が掲げた重商主義による物資の流通化と人びとの消費文化の活性化、江戸が100万人を超えた一大消費地になったこととあいまって、佃煮は江戸湾で獲れるものだけでは間に合わなくなり、近くは常陸(ひたち)の国の霞ヶ浦や遠くは秋田の八郎潟で獲れる白魚などで作られた佃煮が江戸庶民の膳に並ぶようになった。
えびす様は海神だから佃煮などの海の幸も並べて祝うが、えびす膳には椀に山盛りした飯を供え、裏に「夷三郎(えびすさぶろう)」と刻印した私鋳銭を祝い物として造って供えることもあった。
えびす講の当日は、知人や親類を呼んでえびす講料理を出し、「えびす笑い」とか「大黒笑い」と称して、躍りや笑い話を語って、夜通しにぎやかに過ごすことがあった。
えびす様の前には、お神酒(みき)・鯛・高く盛られた飯などが供えられ、それらは縁起物の千両箱を何段も積み重ねた上に載っている。『絵本吾妻抉(えほんあずまからげ)』寛政9年(1797)刊より。
紋日…遊里で五節供やその他特別な日と定められた日。この日は遊女は必ず客を取らねばならず、揚代もこの日は特に高く、祝儀など客も特別の出費を要した。
享保の改革…八代将軍徳川吉宗の行った幕政改革。綱紀粛正(こうきしゅくせい)、質素倹約、農村対策など、政治・財政の立て直しをはかった。
田沼意次…1719~88。江戸中期の幕政家。明和4年(1767)に第十代将軍家治(いえはる)の側用人(そばようにん)、安永元年(1772)に老中となる。積極的な膨張経済政策をすすめ、江戸のバブル期ともいえる「田沼時代」を築いた。
(お知らせ)
本コラムの執筆者・棚橋正博先生が出演されるNHKカルチャーラジオ『弥次さん喜多さんの見た東海道』が10月1日(木)から始まっています。全13回。NHKラジオ第2放送、毎週木曜日午後8:30~9:00。再放送は金曜日午前10:00~10:30です。