第1回 わが若き日の調べもの

2015年3月2日(月)山根一眞

ホームページは12億件を突破!

「調べる」ことほど楽しいことはない。

では、人はなぜ「調べる」のか? 「疑問」を持つからだ。

「疑問」は、何かを見て、何かを考えて、「謎」を見つけることで生まれる。「謎」とは、自分がその「答」を知らないことを意味する。「答」を知らないのは気持ちが悪い。「調べる」のは「謎」の「答」を知ってスッキリしたいからでもある。

「調べるなんて簡単、ネットで何でもわかるから」と、思うかもしれない。

実際、2014年9月16日に、世界のホームぺージの数は10億件を突破したと伝えられた。以下のインターネットのリアルタイムの統計ページを見ると、その情報量が爆発的に増大していることが実感できる。

http://www.internetlivestats.com/

ここでは、すでにホームページ数が12億件を超え、30億人という世界のインターネットユーザーが、Googleで1日あたり8億件近い「調べもの」をしていることがわかる(2015年2月17日現在)。

とてつもない情報量だ。昨年の12月にチェックした時と比べると、2ヶ月間にホームページだけでも約1億件増えていた! ネットが爆発的な情報増大を続けていることには驚くばかりだ。「ない情報はない」とすら思える。

ところが現実は、「調べるなんて簡単、ネットで何でもわかるから」というわけにはいかない。

たとえば、インターネットの商用サービスが始まったのは1994年。そのため、それ以前の情報はネット上ではガクンと少ない。1990年代以前のことを調べるには、当時の雑誌や新聞、書籍が欠かせないのである(古い印刷媒体のPDF化が進んではいるが)。

阪神・淡路大震災の写真が少ないわけ

インターネットは画像や映像も豊富だが、ネット上で検索できる写真は1995年以前のものとなると、これもきわめて少なくなる。

これは、一般ユーザーが手にできた最初のデジタルカメラの登場が1995年4月(カシオのQV-10)からだったからでもある。

液晶ディスプレイ付の最初のデジカメ、カシオのQV-10の発売は阪神・淡路大震災直後の1995年4月。どこかにあるはずだが、今回見つかったのは上位機種、QV-30(価格は6万9500円!)。いずれも解像度は28万画素で記録としての価値がない写真しか撮れなかった。1960年代前後の少年時代に愛用していたおもちゃカメラ(写真下)は、銀塩フィルムを使っていたためまずまずの記録性があった。初期のデジカメはこれより画質が悪かった印象。(写真・山根一眞)

デジタル写真であればネットへの掲載はとても簡単だが、それ以前は銀塩フィルムを使っていたので、それをスキャンしデジタル化する作業は手間がかかるからなのだ。

2011年3月の東日本大震災関連の写真は莫大な量がネット上で閲覧できるが、1995年1月の阪神・淡路大震災の写真はほとんどが報道機関によるもので、数もきわめて少ないのはそのためだ。

Googleの画像検索で表示された阪神・淡路大震災(1995年)と東日本大震災(2011年)の写真。阪神・淡路大震災では報道機関による写真が圧倒的だが、東日本大震災では現場にいた素人ならではの「その時」の写真が多いことがうかがえる。高画質デジカメ(携帯カメラ)普及のおかげだ。

また、ネット上の情報はじつに「重複」が多い。私が、取材にもとづいてネット上に書いた記事をGoogleで検索したところ、見覚えのないウェブやブログなどでたくさん見つかった。それらはいずれも、私が知らないうちに私の記事を転載アップしたものだった。

その数があまりにも多く、またそれぞれのウェブやブログは、「書いている人」の氏名も所属も連絡先も記載していないことがほとんどだ。

こういうネットならではの「コピペ」発信の増加によって、ネット上の情報は、どれがオリジナルでどれがオリジナルからの引用転載なのかの判別がとてもしにくくなっている。出典や執筆報告者の記載のない情報に頼るのは、常に注意が必要なのだ。

また、オリジナル情報といえども必ずしも正確とは限らない。

ウソも含まれているかもしれないし、意図的に事実を曲げて伝えているかもしれない。だからこそ、その引用掲載をする場合には、もとのオリジナル情報を検証した上で、間違いがあればそれを指摘した上で伝えるべきなのだが、そういうケースも少ない(それを行う場合も、執筆報告者名を記すべきだが)。

論文でもニュース記事でも身近な問題でも、それは変わらない。情報で怖いのは「鵜呑み」なのである。「朝日新聞問題」はそのことの重要性に光が当てられたできごとだった(「鵜呑み」と書いたところで、鵜を使う漁法について調べたくなった……)。

父の助言は「辞書を引け!」

オリジナル情報であれ引用転載であれ、自分の眼で確かめ、自分の足で歩き、事実、真実をみきわめ、わからないことは「わからない」と断った上で記すことが、情報の発信者が守らねばならない最低限の心得だ。

およそ45年以上にわたり出版、ジャーナリズムで仕事をしてきた私は、そのことがいつも頭にあった。
こういう、今の時代のあふれる情報のありようを踏まえると、正しい(少なくともオリジナルの)情報を「調べる」ためには、それなりの「技」が欠かせないことになる。
「調べもの極意伝」という連載を始めることにしたのは、その「技」を広く伝えたいと思ったからでもある。
私は子供時代に、テレビを見ていてわからないことがあって父に質問すると、必ず、「辞書を引け!」と言われた。
辞書や事典の記述は、その分野の専門家が「署名入り」で記している。
いい加減な記述をすれば、その分野の専門家から糾弾されることになるので、執筆者は真剣な思いで書く。それが辞書であり事典だ。
私の父は、いくつかの百科事典でかなりの数の項目を執筆していたからこそ、そういう助言をしてくれたのだと思う。この父の助言によって、私は、最初の基礎知識を得るために、まず辞書や事典を読み大事な第一次情報源を得ることを心がけてきた。

山根書斎の書棚のひとつ。ネットなき時代の調べものに欠かせなかった新聞縮刷版のほか百科事典は他の部屋も含めて8種を保有。(写真・山根一眞)

便利すぎて困る「Wikipedia」

ネット上ではWikipedia(ウィキペディア)という便利な百科事典が広く利用されている(もちろん私も支援金を払った上で利用している)。
だが、これを、まるごと「コピペ」したウェブもとても多い。
Wikipediaは、ひとつの項目を数多くの人が共同で作り上げていくという人類史上前例のない文化活動だが、執筆者、加筆者とも署名がないという大きな問題点がある。
従来の百科事典のように、執筆内容に対して責任の所在が不明なのだ。
怪しい内容、不十分な記述に対しては、その旨のコメントが添えられる機能があるものの、Wikipediaは常に未完の「途上の知の集積庫」であるため間違いも多い。そこで、Wikipediaを存分に利用し、正しい、オリジナルの情報を得るためには、コツがある(それについても追って披露します)。

「イスラム国」の記述についてさまざまな意見が記されているWikipedia。

また、この「調べもの極意伝」では、日常生活や仕事で生じた「疑問」の、正しい「答」や「発見」を単にネット検索に頼るだけではなく、「自分自身」で手にしていく方法も伝えていきたいと思っている。

「北朝鮮スパイ」の暗号を受信していた

私は高校時代に通信型受信機を使う短波受信に熱中していた。

1960年代の半ば、もう50年も昔のことだが、それはアマチュア無線の世界に入るための準備でもあった。

短波とは、AMラジオ放送よりも上、FMラジオよりかなり低い周波数(3MHzから30MHz帯)を使う通信であり放送だ。AMラジオ放送の電波もFMラジオの電波も遠くには届かないが、短波帯は地球をとりまく電離層と地上との反射を繰り返し伝わっていく特性があるため、地球の反対側にでも届く。

もっとも遠い国からの弱い電波を受信するためには大きなアンテナが必要で、より高性能の通信型受信機があった方がよい。

1990年代前期に発売された世界最高級と謳われた通信型受信機。60万円近くしたがつい買ってしまった。CIAが採用したというだけあってネットなき時代に全世界の情報と書斎が直結した。

インターネットなど影も形もなかった時代には、この短波の受信は、自分の家にいながら、リアルタイムで世界を知る最大の手段だった。

後にアマチュア無線(ハム)の免許を取得してからは、地球の遥か彼方の国の人と電波による送受信も可能になった。

携帯電話もスマホも、実は基本的には同じことをしている。いずれも無線送受信機だが、それを意識している人は少ないのでは?

私は、憧れだったトリオ(現・ケンウッド)製の通信型受信機の名機「9R-59」の組立キットを小遣いを貯めて秋葉原電気街で買い、ハンダごてを手に必死に組み立て、庭に長い電線でアンテナを張り、夜ごと世界中の短波放送を聴くようになった。

当時は、世界の各国が日本向けの日本語放送を行っていたが、それを聴くことで「世界の今」を知ることができたのだ。

雑音まじりの中に、かすかに聞こえたり聞こえなかったりする放送を耳を研ぎ澄ませて必死に受信するのが大きな楽しみだった(勉強もろくにしないで)。

上はTRIO(現・ケンウッド)が1950年代後期に発売の通信型受信機9R-4J。アメリカ製を真似たモデルだったが、1961年発売の9R-59は斬新なデザインとあいまって人気モデルとなった。いずれも山根コレクション。(写真・山根一眞)

太平洋上で聴いた「オールナイトニッポン」

太平洋上で操業中の漁船どうしの交信を傍受して、漁業の大変さを知ったこともある。

24歳の時に私は取材のため海上自衛艦に同乗して南米のブラジルまで3ヶ月の航海をした。

1972年に海上自衛隊の南米遠洋航海で3ヶ月の同行取材をした山根(当時24歳)。

その航海の途上で、夜になるとデッキに出て持参のトランジスタラジオとアンテナを使い、こっそりとラジオ放送を聴いていた。日本から離れるにしたがって「オールナイトニッポン」がどんどん聞こえにくくなり、まったく聞こえなくなったあと、代わって聞こえてきたのはハワイのラジオ放送だった。AMラジオは障害物がない海でも到達に限界があることを実感したのだが、それなら短波だと、自衛艦の無線室を時々訪ねるようになった。そこで、こっそりと受信機を使わせてもらっていたのだ。

さすが自衛艦の無線設備だけあり、感度が高かった。カリブ海を航行中に受信したのは、東京の高円寺周辺で無線交信をしているアマチュア無線家の通信だった。短波は、電離層の状態次第で地球の反対側にも届くことには感銘した。

こういう高感度の通信型受信機では、とんでもないものも聞こえていた。そのひとつが北朝鮮乱数暗号放送だった。

高校時代の話に戻るが、受信機「9R-59」のダイアルを回していて、ある日、その電波を受信したのである。

北朝鮮の海外向けのプロパガンダのラジオ放送の終了後、しばらくすると朝鮮語の数字(らしきものを)をひたすら話している声が聞こえてきたのだ。高校生でも明らかにそれが乱数表の「暗号」だとわかった。

深夜の同じ時間、同じ周波数でそれが受信できることから、国外にいる北朝鮮のスパイに対して本国の諜報機関が定時指示を行っているに違いなかった。

私が聴いているのと同じ時間に、この暗号を密かに聴いているスパイが、どこかにいるのだと思うとゾッとした。

そしてある日、新聞を見て驚いた。

日本国内で北朝鮮のスパイが逮捕され押収した本国からの暗号による指示を受信していた通信型受信機の写真が掲載されていたのだ。

何とそれは、私が愛用していたのと同じ「9R-59」だった。私の通信能力は北朝鮮のスパイと同じだったのだ。

だが、その後も暗号放送は変わりなく続いていたので、まだまだ数多くの北朝鮮のスパイが日本に潜んでいることは間違いないと確信していた。

それから20年後、1980年代初頭のことだが、取材で東北の日本海岸の寒村を訪ねたところ、こういう証言を得た。

「若い男女のカップルなど何人かが突然行方不明になっている」

「海岸に北朝鮮のものと思われるゴムボートが漂着していたのを見た」

「変な荷物が草むらに隠してあった」

ピンときた。国内に潜んでいるあの暗号受信者である北朝鮮のスパイの仕業に違いない、と。実際、公安警察(?)がやってきて情報を収集したり、注意を呼びかけるビラを置いていったという。

男女カップルが突然行方不明になった、北朝鮮工作員のゴムボートが隠してあった、などの証言を得たのは日本海沿いのここ、1980年代半ばのことだ。(GoogleEarth)

北朝鮮による日本人の拉致被害が明確となり、国がこの問題に取り組み始めたのはそれからさらに20年も過ぎてからのことだったと思う。

北朝鮮による日本国内でのスパイ活動や拉致事件の疑いの情報は、はるかに早くから得られていたのだから(高校生でもわかったのだから)、なぜ、もっと早く国が本腰を入れて解決の努力をしなかったのかと残念に思う。

しつっこく調べてこそ「発見」がある

さらに20年後、私は、日本国内の某県警が北朝鮮の工作船を保管していることを知った。その工作船は嵐で遭難し海岸に漂着、工作員は溺死しているのが発見されたのだという。

その北朝鮮の工作船を保存している建物を訪ね、見ることができたのだが、間違いなく北朝鮮の工作船であることを物語る遺留品を見て慄然とした。

「007」の映画で見たような魚雷型水中スクーターもあったが、無線機などの装備は何とも古い技術だった。後に、それら撮影してきた写真のひとつ、ある通信道具を徹底して調べたところ、購入した場所がいくつか推定できた。それらの店を手がかりにすれば、通信道具の調達役の人物が特定できるはずと確信した(警察はそういう捜査をしたのでは?)。

この工作船を前にして、私なりにそこから多くの情報を得ることができたのは、高校時代に自分自身でオリジナルの暗号無線を受信、自分自身の足で工作員の痕跡がある現場を歩き証言を得ていたことがベースにあったからこそだった。

これは、私の若き日の「調べもの」の一例だ。

この「調べもの極意伝」では、北朝鮮のスパイの技を伝授することが目的ではないが(工作船については回を改めて詳述します)、どんな身近なことでも、深く、詳しく、しつっこく調べることで大きな発見が得られることを、具体的な体験や例をもとに知っていただければと願っています。<第1回了>

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